生存の価値についての大きな疑問符がどこにつけられていたか、見当がつくだろう。ペシミズムといえば、これはかならず下降の徴候ときまっているだろうか? ペシミズムはいやでも頽廃と出来損いのしるし、疲れはてて弱体化した本能のしるしときめてかからねばならぬだろうか? われわれ「近代」人、ヨーロッパ人の場合もおそらくはそうなのだが。強さのペシミズムというものがあるのではないか?
生存の苛酷なもの・戦慄的なもの・邪悪なもの・問題的なものに知的偏愛をいだくということが幸福やあふれるばかりの健康、生存の充実からくる場合があるのではないか? 過剰そのものに悩むということが、ひょっとしたらあるのではなかろうか? きわめてするどい眼差しが、自分から恐ろしいものを求めるといった、当って砕けろ式な勇敢さをそなえている場合が、ひょっとしたらあるのではなかろうか?
それは自分から敵を求めるのと同じではないか? 自分の力をためすことのできるような互角の敵、その相手によって「恐れる」とはどういうことかなのか、学び知ろうとするような勇敢さがあるのではなかろうか? ほかでもない一番いい時代のギリシア人、最も強く、最も勇敢だった時代のギリシア人において、悲劇的神話の意味するところは何であるのか? それから、ディオニュソス的なものという怪異な現象は何を意味するのか? ディオニュソス的なものから生まれた悲劇の意味するところは何か?
さらにまた、悲劇のいのち取りとなったもの、道徳のソクラテス主義、理論的人間の弁証法と満足と明朗さは何を意味するのか? ほかならぬ、このソクラテス主義こそ、下降・疲労・疾患の徴候、無秩序に解体してゆく本能のしるしでありうるのではないか? また、後期ギリシア精神のいわゆる「ギリシア的明朗さ」は、ただ夕焼けにすぎないのではないか?
フリードリヒ・ニーチェ「悲劇の誕生」