「思い出の戦争」だけは真の戦争の抑止力となります。戦争により、横たわり、苦しんでいる市民を静かに見守る事しかできない。 戦争を目前にして、市民の地域と家族における存在の尊厳が失われている。 生活が戦争で割かれ分離しても、家族や地域の絆を保つのは僅かな存在にすぎない市民である。戦争の持つ悲惨な歴史を共感できない事にもよる。 世界大戦の戦争から原爆による終止符の犠牲で、市民は多くの辛酸を受けた。 戦争と貴重な経験による平和市民が読み継いだ「日本思い出の戦争」を授けたい。 戦争の荒波を渡ろうとしている市民代弁者として日本思い出の戦争をまとめる。 ささやかな戦争のメッセージである日本思い出の戦争記を平和市民に送り捧げたいために。@Jan/1/2016, JNW, japan.nowar@gmail.com
2017年11月29日水曜日
2017年11月26日日曜日
破戒にて虚く人夫の供養を受るより、無道心にて徒に如来の福分より、在家人に随ふて命ながらへて能く修道せん。
答えて云く、但夫れ衲子の行履、佛祖の家風を学ぶべし。三國ことなりといへども真実学道の者いまだ此の如きの事あらず。只心を世事に執着すること莫れ。一向に道を学すべきなり。佛の言く、衣鉢の外は寸分の貯へざれ、乞食の余分は飢たる衆生に施せ、設ひ受け来るとも寸分も貯ふべからず。況や馳走あらんや。外典に云く、朝に道を聞いて夕べに死すとも可なりと。設ひ飢へ死に寒へ死すとも、一日一時なりとも佛教に随ふべし。万劫千生、幾回か生じ幾度死せん。皆な是れ世縁妄執の故へなり。今生一度佛制に随て餓死せん、是れ永劫の安楽なるべし。いかに況や未だ一大蔵教の中にも三國伝来の佛祖、一人も飢へ死にし寒へ死にたる人ありときかず。世間衣糧の資具の生得の命分ありて求に依ても来らず、求ざれども来らざるにも非ず。只任運にして心に挟むこと莫れ。末法なりと謂ふて今生に道心発さずば、何れの生にか得道せん。設ひ空生迦葉の如くにあらずとも、只随分に学道すべきなり。外典に云く、西施毛嬌にあらざれども色を好む者は色を好む、飛兎縁耳に非ざれども馬を好む者は馬を好む、龍肝鳳髄にあらざれども味を好む者は味を好む。只随の賢を用るのみなり。俗なを此の叢林、人天の供養絶へず。如来神通の福徳自在なるも、馬麦を食して夏を過しましましき。末法の弟子、豈に是を慕はざらんや。
問て云く、破戒にして虚く人夫の供養を受け、無道心にして徒に如来の福分を費やさんより、在家人に随ふて在家の事をなして、命ながらへて能く修道せんことを如何ん。
懐 奘「正法眼臓随聞記」
2017年11月25日土曜日
日いづる國はこゑのままに、よろづの事を伝へ、日さかる國は万づの事にしるしとする國也。
これの日いづる國はいつらのこゑのままにことをなして、よろづの事をくち豆からいひ伝へるくに也、それの日さかる國は万づの事にかたを書てしるしとする國也、かれの日の入國はいつらばかりのこゑにかたを書て、万づの事にわたし用いる國也、かかるに此くににのみかたを用ざるを疑ふ人あるはいまだしかりけり、なぞといはば、日放る國人は巧みなる事を好むより、言もおのづから一こゑのちに多きことわりのこもれれば、かたなくはことゆかじ、されども千よろずの声に繪を作れるはうたてあり、日の入國はこまやかなる思ひかねを好むからに、事も音も従ひてさはなれば、こもかたを用めり、されどもただいつらばかりの音のかたもて万づにうつしゃるべくせしは、こまやけく思い兼たる也、これの日出る國はしも、人の心なほかれば事少く言もしたがひてすくなし、事も言も少なければ惑ふこともなく忘るる時なし、故天つちのおのづからなるいつらの音のみにしてたれり、なぞも人の作れるかたを待てものをなさめや、しか有を此いつらの音をつらねいふは、日の入国にならへりといふ人有こそうこなれ、此國の古へ人こととはざらんや、こととふは天地のちちははの教え也、かれしらずしらず此いつらの音もあるめり、且しか思ふ人は時代をも思はず、おのが國のふることをしらで、他の國の事をなまなまに聞いていへる也。
加茂 真淵 ( 語意 ひとつ )「語意・書意」
2017年11月24日金曜日
キリスト教徒たちは、インディオには猛り狂った獣と変らず、人類を破滅に追いやる人々であり、最大の敵であった。
私は頭株の人たちや領主が四、五人そして火あぶりにされているのを目撃した。彼らは非常に大きな悲鳴をあげ、司令官を悩ませた。そのためには、安眠を妨害されていたためか、いずれにせよ、司令官は絞首刑にするよう命じた。ところが、彼らを火あぶりににしていた死刑執行人よりはるかに邪悪な警吏の望みとおり、じわじわと焼き殺した。
私はこれまで述べたことをことごとく、また、そのほか数えきれないほど多くの出来事をつぶさに目撃した。キリスト教徒たちはまるで猛り狂った獣と変らず、人類を破滅に追いやる人々であり、人類最大の敵であった。非道でも血も涙もない人たちから逃げのびたインディオたちはみな山に篭ったり、山の奥深く逃げ込んだり、身を守った。すると、キリスト教徒たちは彼らを狩り出すために猟犬を獰猛な犬に仕込んだ。犬はインディオをひとりでも見つけると、瞬く間に彼を八つ裂きにした。また犬は豚を餌食にする時よりもはるかに嬉々として、インディオに襲いかかり、食い殺した。こうして、その獰猛な犬は甚だしい害を加え、大勢のインディオを食い殺した。
インディオたちが数人のキリスト教徒を殺害することは稀有なことであったが、それは正当な理由と正義にもとづく行為であった。しかし、キリスト教徒たちは、それを口実にして、インディオがひとりのキリスト教徒を殺せば、その仕返しに100人のインディオを殺すべしと掟を定めた。
ラス・カサス「インディアスの破壊についての簡潔な報告」
2017年11月23日木曜日
翁は曰く、善悪の論は甚だむずかし、本来を論ずれば、善も無し悪もなし。
翁曰、善悪の論は甚だむずかし、本来を論ずれば、善も無し悪もなし、善といって分つ故に、悪という物できるなり、元人身の私より成れる物にて、人道上の物なり、故に人なければ善悪なし、人ありて後に善悪はある也。故に人は荒地を開くを善とし、田畑を荒らすを悪となせども、猪鹿の方にては、開拓を悪とし荒らすを善とするなるべし。世の法盗を悪とすれども、盗中間にては、盗みを善としこれを制する者を悪とするならん。しかれば、如何なる物これ善ぞ、如何なる者これ悪ぞ此理明弁し難し、此理のもっとも見安きは遠近なり、遠近というも善悪ともいうも理は同じ、例えば、杭二本を作り一本には遠と記し一本には近しと記し、この二本を渡してこの杭を汝が身より、遠き所と近き所と、二所に立べしといい付ける時は、速やかに分かる也。予が歌に「見渡せば遠き近きはなかりけりおのれおのれが住処にぞある」とこの歌善きもあしきもなかりけりという時は、人身に切なる故に分からず、遠近は人身に切ならざるが故によく分かる也。工事に曲直を臨むも余り目に近すぎる時は見えぬ物なり、さりとて遠近てもまた、眼力及ばぬ物なり。古語に遠山木なし、遠海波なし、といえるが如し、故に我身に疎き遠近移して諭すなり。夫遠近は已が居所先に定まりて後に遠近ある也。居所定らぜれば遠近必なし、大阪遠しとはいはば、関東の人なるべし、関東遠しとはいはば、上方の人なるべし。禍福吉凶是非得失みなこれに同じ、禍福も一つなり、善悪も一つなり、得失も一つなり、元一つなる物を半を善とすれば死の悲しみはしたがって離れず、咲きたる花の必ちるに同じ、生じたる草の必ず枯れるにおなじ。
二宮 尊徳「二宮翁夜話」
2017年11月22日水曜日
おのれに存する偉大なるものの小を感ずることのできない人は、他人に存する小なるものの偉大を見のがしがちである。
おのれに存する偉大なるものの小を感ずることのできない人は、他人に存する小なるものの偉大を見のがしがちである。一般の西洋人は、茶の湯を見て、東洋の珍奇、稚気をなしている千百の奇癖のまたの例に過ぎないと思って、袖の下で笑っているであろう。西洋人は、日本が平和な文芸にふけっていた間は、野蛮国とみなしていたものである。しかるに満州の戦場に大々的殺戮を行い始めてから文明国と呼んでいる。近ごろ武士道 ー わが兵士に喜び勇んで身を捨てさせる死の術 ー について盛んに論評されてきた。しかし茶道にはほとんど注意がひかれていない。この道はわが生の術を多く説いているものであるが。もしわれわれが文明国たるためには、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。われわれはわが芸術および理想に対して、しかるべき尊敬が払われる時期が来るのを喜んで待とう。
いつになったら西洋が東洋を了解するであろう、否、了解しようと努めるであろう。われわれアジア人はわれわれに関して織り出された事実や想像の妙な話にしばしば胆を冷やすことがある。われわれは、ねずみや油虫を食べて生きているのではないとしても、蓮の香を吸って生きていると思われている。これは、つまらない狂信か、さもなければ見さげ果てた逸楽である。インドの心霊性を無知といい、シナの謹直を愚鈍といい、日本の愛国心をば宿命論の結果といってあざけられていた。はなはだしきは、われわれは神経組織が無感覚なるため、傷や痛みに対して感じが薄いとまで言われていた。
岡倉 覚三「茶の本」
2017年11月21日火曜日
東方の者は統一のために差別を見失ふに引きかえ、西方の者は差別のために統一を忘れる。
ドイツ思弁哲学は古へのソロモンの智慧と正反対を成している。これは日の下に新しき何ものもないと見るに引きかへ、それは新しきもののみを見る。東方の者は統一のために差別を見失うに引きかえ、西方の者は差別のために統一を忘れる。彼らは永久に一様なものに対する自己の無関心を、愚妄の無感情にまで押し進めるに引きかえ、之れは多種多様なものに対する自己の感受性を、恣まな想像の病熱にまで高める。ここにドイツ思弁哲学というは、現在支配的ある哲学 ー ヘーゲル哲学を特に意味するのである。けだしシェリング哲学は本来一の外来種 ー ゲルマンの土地に育った古への東方的同一性 ー であって、従ってシェリング学派の東方に対する性向は、この学派の本質的性向であるのと同じく、その反対に、西方に対する性向と東方の卑下がヘーゲル哲学とその学派との特徴なのである。同一哲学の東方主義に対し、ヘーゲルの特徴的要素は差別という要素である。
ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ「ヘーゲル哲学の批判」
2017年11月19日日曜日
汝が悪人を赦した時は、悪人の当然報いるに合致するにあらず、汝の仁慈に一致するが故に義である。
汝が悪人を罰したまうこともまた義である。何となれば善人が善を、悪人が悪を受けることよりも以上に、善なることがあろうか。しからば汝が悪人を罰したまうことも義であり、汝が悪人を赦したまうことも亦義であるのは、如何にしてであるか。汝が悪人を罰したまふのも義であり、汝が悪人を赦したまうのも義であるが、しかもそのあり方はお互いに異なっているのであろうか。というのは、汝が悪人を罰したまうのも義であるが、しかもそのあり方は互いに異っているのであろうか。というのは、汝が悪人を罰したまう時には、悪人の当然報いられべきものに合致するが故に、それは義なのである。しかし汝が悪人を赦したまう時には、それは、悪人の当然報いらるべきものに合致するが故にあらずして、かえって汝の仁慈に一致するが故に、義なのである。何となれば汝が悪人を赦したまう時、われわれの方からすればさうではないが、汝の方からすれば義でありたまうからである。それはあたかも汝がわれわれの方からすれば憐憫をもちたまうが、汝の方からすればもちたまうのではないと同様である。これが、義によっては汝が滅ぼしたまうべきわれらを、救いたまいて ー 汝が感情の動きを感じたまうからではなくして、われわれがその効力を感じるが故に ー 憐憫ふかくありたまう理由であり、それと同様に ー われわれに、当然の負目を報いたまうからではなく、かえって最高の善である汝に応わしきことを為したまう故に ー 義にまします理由である。それ故にかくの如く矛盾なく、汝が罰したまうことも善であり、赦したまうことも義である。
聖アンセルムス「プロスギオン」
2017年11月18日土曜日
砲弾の音をきいた途端に大地にひれ伏して、王自らが提督の頭や首にかけ数々の品を贈った。
静穏なる君主よ、私は、彼らの言語を知る敬虔な宗教人が共に居れば、彼らは皆、今すぐにもキリスト教徒になるものと考えます。したがって両陛下が、このように偉大な民を教会に帰依させ、改宗させるために、機敏なる措置をとられ、かつて、父と子と聖霊にざんげしようとしなかった者共を滅亡させられたように、しかるべき決定をされますように、神に願うものであります。我らの命には限りがありますが、こうすることによって、両陛下も、生涯を終えられるときは、その王国を邪教や悪の汚れのないきわめて静穏な状態に置かれることになりましょうし、また永遠の創造主の前に喜んで迎え入れられることになりましょう。私は、創造主が、両陛下に末長き生命を与えられ、さらに広大な国や領土を与えられよう祈りますと共に、両陛下が聖なるキリストの教を今日まで弘めてこれましたように、今後もさらにこれを拡大させられるよう、そのための意志と資質を、創造主が両陛下にお与えになることを祈るものであります。アーメン。本日船を浜から下ろしまして、木曜日には神の御名において出帆し、黄金と香料を探し求め、かつ陸地を発見するために、西東に向かうつもりです。
提督は手真似で、カスティリャの両国宝が、カリベ族を滅ぼして彼らの両手をくくり、皆連れてくるように命ずるだろうと語った。そしてロンバルダ砲とエスピンガルダ銃を打たしたが、その弾丸が非常な力で貫いて行くのを見て、彼は感心してしまった。彼らは、砲弾の音をきいた途端に大地にひれ伏してしまったのである。彼らは提督の所へ、耳や目や、いろんなところに大きな黄金片がはめこんでいる大きな面や、金製の飾物を持ってきて、王自らが、それらを提督の頭や首にかけて、また提督と同行して居たキリスト教徒達にも数々の品を贈った。提督はこのように贈物を見て喜び、かつ心慰められて、本船を失ったその苦しみも、悲しみも薄らいだ。そして本船が坐礁したのも、この地に根拠地を設定するようにとの神の思し召しによるものと解した。
クリストーバル・コロン「コロンブス航海日誌」
2017年11月16日木曜日
時に声あり胸中に聞ゆ、細くして殆ど区別し難し、尚ほ能く聞かんと欲して心を沈まれば其声なし。
時に声あり胸中に聞ゆ、細くして殆ど区別し難し、尚ほ能く聞かんと欲して心を沈まれば其声なし、然れ共感霊懐疑と失望を以て余を挫かんとする時其声又聞ゆ、曰く「生は死より強し、生は無生の土と空気とを変じアマゾンの森となすが如く、生は無霊の動物体を取り汝の愛せし真実と貞操の現象となせし如く、生は人より天使を造るものなり、汝の信仰と学術とは未だここに達せざるか、此地球が未だ他の惑星と共に星雲として存せし時、又は凝結少しく度を進め一つの溶解球たりし時、是ぞ億万年の後シャロンの薔微を生じレバノンの常磐樹を繁茂せしむる神の楽園とならんとは誰が量り知るを得しや。最初の博物学者はけむし変じてまゆと成しときは生虫の死せしと思ひしならん、他日美翼を翻へし日光に逍遥する蛾はかつて地上に匍匐せし見悪くかりとものなりとは信ずる事の難かりたらん。暗黒の時代より信仰自由と代議政体が生まれ、「三十年戦争」の劇場として殆ど砂漠と成しドイツこそ今は中央ヨーロッパの最強国になりしにあらずや、地球と人類が年を越ゆる程生は死に勝ちつつあるにもあらずや、さらば望と徳とを有し神と人とに事えんと已を忘れし汝の愛するものが今は死体となりしとて何ぞ失望すべけんや、理学も歴史も哲学も皆希望を説教しつつあるに何ぞ汝独り失望を信ずるや」。
内村 鑑三 (愛するものの失せし時)「基督教徒のなぐさみ」
2017年11月14日火曜日
混乱した判断を下し、原因から認識する習慣が無い人々には、本体の性質には存在が属するの理解が困難であろう。
物について混乱した判断を下し、また物をその第一の原因から認識する習慣が無い人々には、疑も無く、定理7 (本体の性質には存在が属する ) を理解することが困難であろう。なんとなれば、彼らは本体の様態と本体自身との間に何らの区別も立てず、また物が如何にして生じるかを知らないからである。その結果彼らは自然物に始が有ると思うゆえに、本体にも始が有ると考えている。何となれば、物の真の原因を知らない人は、すべての物を混同して、平気で、樹木が人間のようにものを言い、また人間が種子から生じ或は石から造られ、また一般にすべての形相が他の任意の形相に変じ得ると想像するからである。同様に、神性を人間性と混同する者もまた、如何なる仕方で感情が精神の中に生ずるかをまだ知らない間は特に、無造作に人間感情を神に帰する。
これに反して、もし、人が本体の性質に注意を払ったならば、定理7の真理はもう疑われないであろう。実に、この定理は彼らに公理として認められ、一般概念の中に数えられるであろう。なんとなれば、彼らはかくてか本体を、自身の中に在りかつ自身によって考えられるもの、すなわち、その認識が他の物の認識を要しないものと解し、様態をば、他のものの中にあり、かつその概念がそれを包含する物の概念を予定するものと解するからである。そのために、われわれは存在しない様態についても、真の観念を有することができる、その故は、それらの様態は悟性の外に現実に存在しないけれども、その本質が他のものの中に含まれ、かくてこれによって考えられることができるからである。
バールーフ・デ・スピノザ「哲学体系 (原名 倫理学)」
2017年11月11日土曜日
存在それ自体の中に死があるのではなく、死せる観察者の、生を見る力なき眼に死が存する。
存在ー存在と我はいうーと生とは、これもまた同一のものである。ただ生のみが独立的に、自己自身によって現存することができる。しかしてまた生は、生である限り、現存を伴うものである。普通には人は存在を、動かない、凝固して、死んだものとして考える。哲学者さえもほとんど例外なくそう考えて来た。存在を絶対者として言い表した場合でさえそう考えていた。このことは全く、人が生きた概念を以てにあらず、死んだ概念を以て存在の思索に向かったことに基づく。存在それ自体の中に死があるのではなく、死せる観察者の、生を見る力なき眼に死が存する。この誤謬の中に他のすべての誤謬の根源が存在し、此の誤謬のために、真理の世界、精神世界が永遠に我々の眼から閉ざされているのである、ということは、他の場所において、少なくともそれを理解し得る人々には、説明しておいた。このところにおいては、この命題の歴史的引用のみで充分である。
これと反対にー存在と生とが同一のものである如く、死と非存在も同一のものである。上に述べた如く、純粋の死、純粋の非存在というものはない。しかし仮象というものはあるのであって、これは生と死、存在と非存在、との混和である。このことからしても次のことが帰結する。すなわち仮象の内部にあって仮象をして仮象たらしめるもの、仮象の中、真実の実在と生に対立しているもの、かかるものに関して言えば、仮像は死であり、非存在である。
ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ「浄福なる生への指教」
2017年11月9日木曜日
戦闘的天性は抵抗を必要とする、抵抗を求める。復讐や怨恨の情の弱さと同じ必然さで、進攻的激情は強さに属する。
戦はまた別個の物である。私は私の流儀から見て戦闘的である。攻撃することは私の本能に属する。敵であり得ること、敵であること ー それは恐らく一つの強い性質を前提とする、ともかくもそれはあらゆる強い性質を条件とする。かかる天性は抵抗を必要とする、この故にそれは抵抗を求める。進攻的激情は、復讐や怨恨の情の弱さに属するのとちょうど同じ必然さで強さに属する。攻撃者の強さの一種の尺準は、彼の必要とする対抗の中にある。あらゆる成長はより強大なる敵対者 ー もしくは問題を探究することの中に示される。何となれば戦闘的な哲人は、問題を引き出して来てまでも決闘をするからである。なすべき任務は一般に抵抗を征服するというのでなく、彼の力量や、自在や又練達した武芸の全体を打込むべき抵抗ー 対等の敵対者を征服するにある・・・敵との対等は ー 正々堂々たる決闘の第一条件だ。軽蔑している場合には戦をすることはできない。命令する場合、何ものかを自分の下に見る場合、戦はなされるべきでない。
フリードリヒ・ニーチェ「この人を見よ」
2017年11月8日水曜日
一族が滅び、夫が死んで、世のあらゆる人々に嘲笑されながら、不死の道を体得しました。
「婦女の身であることは、苦しみである。」と、丈夫をも御する御者 ( ブッダ ) はお説きになりました。( 他の婦人と ) 夫をともにすることもまた、苦しみである。また、ひとたび、子を産んだ人々も (そのとおりで ) あります。
か弱い身で、みずから首をはねた者もあり、毒を仰いだ者もいます。死児が胎内にあれば、両者 ( 母子 ) ともに滅びます。
わたしは、分娩の時が近づいたので、歩いて行く途中で、わたしの夫が路上に死んでいるのを見つけました。わたしは、子どもを産んだので、わが家に達することができませんでした。
貧苦なる女 ( わたし ) にとっては二人の子どもは死に、夫もまた路上に死に、母も父も兄弟も同じ火葬の薪で焼かれました。
一族が滅びた憐れな女よ。そなたは限り無い苦しみを受けた。さらに、幾千 ( の苦しみの )生涯にわたって、そなたは涙を流した。
さらにまた、わたしは、それを墓場のなかで見ました。ー 子どもの肉が食われているのを。わたしは、一族が滅び、夫が死んで、世のあらゆる人々に嘲笑されながら、不死 ( の道 ) を体得しました。
わたしは、八つの実践法よりなる尊い道、不死に至る( 道 ) を実修しました。わたしは、安らぎを現にさとって、真理の鏡を見ました。
すでに、わたしは、( 煩悩 ) の矢を折り、重い荷をおろし、なすべきことをなしおえましたと、キサー・ゴータミー長老尼は、心がすっかり解脱して、この詩句を唱えた。
「尼僧の告白 ー テーリーガーター ー」
2017年11月7日火曜日
みな死者にも敬虔な儀礼を尽くしているが、もし少しも死者と関わりがないならば、全然しなかったであろう。
だがまた私は近頃こんなことを言い出した人達にも賛成ができない。その人々は肉体と一緒に精神も滅びるもので、死によってあらゆるものが無に帰するのだという。が私に対しては古代の人々の信念の方が一層重要である。たとえば我々の祖先にしてもみな死者に対してもあのように敬虔な儀礼を尽くしているが、もしそのようなことが少しも死者と関わりがないと考えていたならば、全然しなかったであろう。あるいはまた往昔この土地に住んでいて、今でこそ滅びてしまったが当時は栄えていた大ギリシアを種々な法制や訓示でもって教導した人々にせよ、またアポルロの神宣によって最も賢い者と定められた人物にせよ、皆然りである。彼は大概の人のように時に応じてあれこれと説くことをせず、いつも変わらずに持論として、人間の心というものは神に属するものであって、肉体を出離すれば即ち天上に登り帰還ことが許されている。そしてその心が優れて正しくあればあるほど、その帰途も容易であると説いたのである。
マルクス・トゥッリウス・キケロ「友情について」
2017年11月6日月曜日
心を公平に操り、正道を踏み、広く賢人を選挙は、能くその職に任ふる人を挙げて政柄を執らしむるは、即ち天意也。
廟堂に立ちて大政を為すは天道を行ふものなれば、些とも私を挟みては済まぬもの也。いかにも心を公平に操り、正道を踏み、広く賢人を選挙し、能く其職に任ふる人を挙げて政柄を執らしむるは、即ち天意也。夫れゆゑ真に賢人と認る以上は、直ちに我が職を譲る程ならでは叶はぬものぞ。故に何程国家に勲労有る共、其職に任へぬ人を官職を以て賞するは善からぬことの第一也。官は其人を選びて之を授け、功有る者には、俸禄を以て賞し、之を愛し置くものぞと申さるるに付、然らば尚書、仲虺乃作誥に「徳懋んなるは官を懋にし、功懋んなるは賞を懋んにする」と之れ有り、徳と官と相配し、功と賞と相対するは此の義にて候ひしやと請問せしに、翁欣然として、其通りぞと申されき。
西郷隆盛「西郷南洲遺訓」
2017年11月5日日曜日
軍人の職業は、事実上及び本質上、人を殺すのではなく、人に殺されることにある。
軍人の職業は、事実上及び本質上、人を殺すのではなく、人に殺されることにある。これに対して世間は、自分自身の真の積りはよく意識せずに、軍人を尊敬しているのである。凶漢の商売は人殺しであるが、世人は決して凶漢を商人以上に尊敬したことはなかったのである。軍人は自己の生命を国家に捧げていればこそ、世人は彼らを尊敬するのである。なるほど軍人は向こう見ずかもしれない、ー 享楽を好み冒険を好むかもしれない、ー また軍職を特に選択したのも実はあらゆる種類の副次的な動機や賎劣な衝動からであったかもしれない。したがってこれ等のものがその職業における彼れの日々の行動を( どう見ても見た所だけでは )左右しているかも知れない。しかし吾々の軍人に対する評価の根底には次の究極の事実 ー それは吾々が信じて疑わない所の事実 ー が厳存しているのである。もし彼れを要塞の破れた一角に置くならば、彼れの背後には浮世のあらゆる快楽があり、彼らの面前にはただ死と本分とのみあっても、彼れは断じて後を顧みないという事実である。実に彼れは何時何時自己の選択すべき生死の両頭が面前に置かれるかもしれないと常に覚悟している。ー 否、あらかじめ自己の死の役を引き受けたのである、ー 事実時々刻々そうした役を引き受けている、ー 否、実に「日々に死」んでいるのである。
ジョン・ラスキン (栄誉の基礎)「この後の者にも 」(経済の第一原理について )
2017年11月3日金曜日
狂気に精神状態が、精神錯乱における観念連合であり、固着観念における奇異な論理である。
常識のあべこべには名称があるであろうか。疑いもなく、狂気の或る形態の中に、人はその急性のものかもしくは慢性のものに出くわす。それは多方面から固着観念に似ている。しかし、狂気一般も固着観念も決して我々を笑わすことはないであろう。なぜならそれは病気だからだ。それは我々の憐憫の情を起こさせる。笑いは我々の知っているように情緒とは相容れない。もし笑いを誘う狂気があるとしたなら、それは精神の一般的健康と両立しうる狂気、健全なる狂気とでも言えるものでしかありえないであろう。
ところで、どの点からも狂気にそっくりの精神の健全な或る状態があって、そこに我々が見出すのは、精神錯乱における同様の観念連合であり、あるいは固着観念における同様な奇異な論理である。それは夢の状態である。そこで、我々の分析が不正確であるのか、でなければそれは次のような定理のうちに定式化されるものでなければならぬのだ。こうだ、滑稽的不条理は夢の中の不条理と同じ性質のものである。
アンリ・ベルグソン ( 性格のおかしみ )「笑い」
2017年11月2日木曜日
官吏は租税を取る、国民は租税を出す、取る者は多を欲し、出す者は少を欲するは人情なり。
およそ国の患うべきは、国民の心の一致せざるより甚だしきはなし、書経の秦誓に紂有臣億万惟奥万心、朕有臣三千惟一心とあるのは、実に殷周の興亡する所以なり。印度は人口二億を有し、東洋第二の大国なりしも、国民の心の一致せざるよりして、竟に英国の侵掠を受け分裂滅亡の惨禍に罹れり。およそ何れの国にても、官吏は租税を取るの職にして、国民は租税を出すの職なり、取る者はその多からんことを欲し、出す者はその少なからんことを欲するは人情なり、これ官民の一和せざる所以なり。また国民が宗旨の同じからざる、学問の信ずる所の同じからざる、政治上の意見の同じからざる保守改進等は、何れも民心の一和を妨ぐる者なり。しかるに今道徳の学会を開き、同志の者は官民を論ぜず、宗旨の異同を問わず、政治の意見の如何に関せず、盡く合して会友となり、道を論じ教を説き、公道の従いて私見を去り、愛国心を先にして、一身の利害を後にし、胸筋を開きて互に相結ぶときは、国民の一和を固うするの方法是より善きは無かるべし。
西村 茂樹「日本道徳論」
2017年11月1日水曜日
人は、その畏るべきを見ざれば、必ずこれ慢易する、もし誉によりて自らを怠らば、則ち反って損せん。
人は、その畏るべきを見ざれば、必ずこれ慢易する。一たび慢易の心を啓かせば、又何を以てか能くこれを治めんや。故に、君子は必ずこれに臨む荘を以てす。その衣冠を正しくし、その羨視を尊くし、邪気を出して、ここに狡猾に遠ざかるは、その荘を為す所以の方なり。今の士大夫には往々、挙措狡猾にして、以て自ら喜ぶ者あり、その意は、蓋しおもえらく、かくの如くにならざれば、以て人情に通じて人を服せしめ難しと。ああ、人情に通じて人を服せしむるものは、自らその道の在るあり。今、その道を以てせずして、この醜態を露はさば、吾れ恐らくは、その人を服せしめんと欲する者、まさに以て、慢易を導くに足ることを。
人の已を誉むるも、已において何か加えん。もし誉によりて自らを怠らば、則ち反って損せん。人の已を謗るも、已において何かを損せん。もし謗によりて自らを強めば、則ち反って益せん。
佐久間 象山「省諐録」
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