2017年11月14日火曜日

混乱した判断を下し、原因から認識する習慣が無い人々には、本体の性質には存在が属するの理解が困難であろう。

 物について混乱した判断を下し、また物をその第一の原因から認識する習慣が無い人々には、疑も無く、定理7 (本体の性質には存在が属する ) を理解することが困難であろう。なんとなれば、彼らは本体の様態と本体自身との間に何らの区別も立てず、また物が如何にして生じるかを知らないからである。その結果彼らは自然物に始が有ると思うゆえに、本体にも始が有ると考えている。何となれば、物の真の原因を知らない人は、すべての物を混同して、平気で、樹木が人間のようにものを言い、また人間が種子から生じ或は石から造られ、また一般にすべての形相が他の任意の形相に変じ得ると想像するからである。同様に、神性を人間性と混同する者もまた、如何なる仕方で感情が精神の中に生ずるかをまだ知らない間は特に、無造作に人間感情を神に帰する。

 これに反して、もし、人が本体の性質に注意を払ったならば、定理7の真理はもう疑われないであろう。実に、この定理は彼らに公理として認められ、一般概念の中に数えられるであろう。なんとなれば、彼らはかくてか本体を、自身の中に在りかつ自身によって考えられるもの、すなわち、その認識が他の物の認識を要しないものと解し、様態をば、他のものの中にあり、かつその概念がそれを包含する物の概念を予定するものと解するからである。そのために、われわれは存在しない様態についても、真の観念を有することができる、その故は、それらの様態は悟性の外に現実に存在しないけれども、その本質が他のものの中に含まれ、かくてこれによって考えられることができるからである。

バールーフ・デ・スピノザ「哲学体系 (原名 倫理学)」