2017年11月11日土曜日

存在それ自体の中に死があるのではなく、死せる観察者の、生を見る力なき眼に死が存する。

 存在ー存在と我はいうーと生とは、これもまた同一のものである。ただ生のみが独立的に、自己自身によって現存することができる。しかしてまた生は、生である限り、現存を伴うものである。普通には人は存在を、動かない、凝固して、死んだものとして考える。哲学者さえもほとんど例外なくそう考えて来た。存在を絶対者として言い表した場合でさえそう考えていた。このことは全く、人が生きた概念を以てにあらず、死んだ概念を以て存在の思索に向かったことに基づく。存在それ自体の中に死があるのではなく、死せる観察者の、生を見る力なき眼に死が存する。この誤謬の中に他のすべての誤謬の根源が存在し、此の誤謬のために、真理の世界、精神世界が永遠に我々の眼から閉ざされているのである、ということは、他の場所において、少なくともそれを理解し得る人々には、説明しておいた。このところにおいては、この命題の歴史的引用のみで充分である。
 これと反対にー存在と生とが同一のものである如く、死と非存在も同一のものである。上に述べた如く、純粋の死、純粋の非存在というものはない。しかし仮象というものはあるのであって、これは生と死、存在と非存在、との混和である。このことからしても次のことが帰結する。すなわち仮象の内部にあって仮象をして仮象たらしめるもの、仮象の中、真実の実在と生に対立しているもの、かかるものに関して言えば、仮像は死であり、非存在である。
ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ「浄福なる生への指教」