2017年11月29日水曜日

人類の経験によって神聖にされた諸々の偏見や習慣を、「理性」そのものが尊敬するのである。

 一体我々の祖先たちの事を知り、これを記録に留めようという欲求が、一般に極めて盛な所を見ると、これはきっと人々の精神に対する或る共通原理から来ているに違いない。我々は、何だか自分自身が我々の先祖として生きていたような気持ちになり、この理想の寿命を少しでも長いものにしようとして、虚栄心が骨を折り且つやがて満足するのである。我々の想像力は、自然が我々を閉じ籠めた狭隘な世界を拡大しようと絶えず活動している。普通一人の人間には五十年乃至百年が許されるに過ぎないが、我々は一面宗教や哲学の教える希望によって死を超越し、他面我々の生を創り出した先祖と結びつくことによって我々の誕生以前に在る沈黙の空虚を充実させる。古い優れた家系に就いての矜恃というものは、もっと冷静な批判をこれに加えたところで、幾分和らげられるに留り決して抑圧されない。よし風刺文学者が嗤笑し、哲学者が説教しようとも、人類の経験によって神聖にされた諸々の偏見や習慣を、「理性」そのものが尊敬するのである。自分が内心ひそかにあやかりたいと思っている強味を他人が持っている時、本心からこれを軽蔑し得る人は極く辛である。遠い昔からの我一門に就いて知っているということは、誰にも彼にも出来るものではないから、抽象的に立派なものとしていつも尊敬されるであろうが、百姓や職工の系図がどんなに長く続いていてもその子孫の矜恃に大した満足を与えはせぬであろう。我々は祖先を発見したいと思うが、而も彼等が裕かな財産を持ち、誉高い称号に飾られ、世襲貴族の階級に於て高位に在る所を発見したいと願う。而もこの階級を人々は、地球上の殆ど凡ゆる風土を通じ、又殆ど凡ゆる種類の政治社会に於て、最も賢明且つ有益な目的から、保存して来ているのである。

エドワード・ギボン「ギボン自叙伝  ー 我が生涯と著作との思い出 ー」