2017年10月27日金曜日

人は科学により幸福を得ないかも知れないけど、科学を失えば現在よりもさらに不幸となるであろう。

 吾らにして道徳上の真理を恐るべからざるものならば、同様に科学的真理をも恐れてはならぬ。特に注意すべきはこれが真に道徳と矛盾することはあり得ないということである。道徳と科学とはそれぞれ特有の領域を有し、互に接触はするけれども相侵すことは無い。道徳は吾らに努力の目的を教え、科学はその与えられたる目的に到達する手段を知らしめる。かく両者を異にするが故に相対することはあり得ない。科学的道徳の存在し得ざると同様に、道徳に反する科学は存在し得ざるものである。

 人の科学を恐るるは、主として科学が吾人に幸福を与え得ざるによる。あきらかに科学は吾らに幸福を与えることはできぬ。吾らは科学を有せざる獣類が人間よりも苦痛を感ずること少なからざるかと疑う。併しながら人間ははたして獣類と同じく自己の死すべきを知らざるによりて不死的なるこの地上の楽園を追慕する事ができるだろうか。すでに禁断の果実を味った以上、人は苦痛のためにその味を忘れることなく、かえって常に回想希求する。人は科学によって幸福を得ないかも知れぬけれども、しかも今日科学を失えば現在よりもさらに不幸となるであろう。

アンリ・ポアンカレ「科学の価値」