2017年7月30日日曜日

好奇心のおもむくままにまかせた「科学のための科学」とは不合理な概念である。

 トルストイから見れば「科学のための科学」とは不合理な概念であるという。「一切の事実を知りつくすことは吾々のよくするところではない。実際には無限ともいうべきほどその数が多いからである。したがってその間、選択をしなければならないのであるが、この選択に際して、吾々は好奇心のおもむくままにまかせて差支えないであろうか。むしろ実益を、いいかえれば吾々の実際的要求を、わけても吾々の道徳的要求を、標準とする方がまさりはしないであろうか。この地球上に何びきテントウムシがいるか、かようなことを計算するよりも、かようなことを計算するよりもさらに価値ある仕事がないであろうか。」というのである。
 わたしにとっては、もとをいうまでもないことであるが、この両者のうちいずれの理想も満足しがたいものである。彼の貧林愚昧な金力政治も、またひたすら右の頬を打たれて左の頬をむけることのみ没頭する彼の道徳的ではあるが凡庸な民衆政治も、ともに私の欲するところではない。後者のもとに住むものは、好奇心の欠けた聖者たちであって、かような聖者たちは極端を戒めるあまり、病に死することはないであろうが、かならず退屈に兼ねて死する相違ない。しかしながら、これは趣味の問題であって、わたしの論じようと欲求するのはこの点ではない。
アンリ・ポアンカレ「科学と方法」