百済観音の像の美しさは、それだけでは明らかにならない。漢の様式の特質を中から動かして仏教美術の創作に趣かせたものは、漢人固有の情熱でも思想でもなかった。外蛮の盛んな侵入によって、血も情意も烈しい混乱に陥っていた当時の漢人は、和らぎと優しみとに対する心からの憧憬の上に、さらにかつて知らなかった新しい心情のひらめきを感じはじめていた。それは地の下からおもむろに萌え出て来る春の予感に似かよったものであった。かくしてインドや西域の文化は、ようやく漢人に咀嚼せられ始めたのである。異国情調を慕う心もそれに伴って起こった。無限の慈悲をもって衆生を抱擁する異国の神は、ついにひそやかに彼らの胸の奥に忍び込んだのであった。
抽象的な「天」が、具体的な「仏」に変化するるその驚嘆をわれわれは百済観音から甘受するのである。人体の美しさ、慈悲の心の貴さ、ーそれを嬰児のごとく新鮮な感動によって迎えられた過渡期の人々は、人の姿における超人的存在の表現をようやく理解し得るに至った。神秘的なものをかくおのれに近いものとして感ずることは、ーしかもそれを目でもって見得るということは、ー彼らにとって、世界の光景が一変するほどの出来事であった。彼らは新しい目で人体をながめ、新しい心で人情を感じた。そこに測り難い深さが見いだされた。そこに浄土の象徴があった。そうしてその感動の結晶として、漢の様式をもってする仏像が作り出されたのである。
百済観音がシナ人の作だというのではない、百済観音を形成している様式の意義を考えているのである。シナではそれはいくつかの様式のうちの一つであった。しかし日本へくるとこの様式がほとんど決定的な力を持っている。それほど日本人はこの様式の背後にある体験に共鳴したのである。
和辻 哲郎「古寺巡礼」