2017年2月6日月曜日

強力な軍事的支配の社会組織は他の総ての有能支配を塞ぐ

 ナポレオンは、社会の秩序の救う「名刀」の役割をになってあらわれ、それによって彼以外のすべての将軍たちをこの役割からとおざけたが、その将軍たちのあるものは、ナポレオンとおなじか、あるいはほとんどおなじようにその役割を果たしていたかもしれないのだ。ひとたび、強力な軍事的支配者をもとめる社会の欲求がみたされると、社会組織は、その他のすべての有能な軍人が支配者にのぼるみちをふさいでしまった。社会組織の力は、同類の他の有能な人間がでてくるのには都合のわるい力となった。このおかげで、われわれがさきにのべたような錯覚が生れるのには都合ののわるい力となった。このおかげで、われわれがさきにのべたような錯覚が生れるのである。
 ナポレオンの個人的な力は、きわめて大げさなかたちでわれわれのまえにあらわれる。というのは、彼の個人的な力をまえにおしだし、それを支えていたあらゆる社会勢力を、われわれは彼の個人的な力のせいにしてしまうからである。ナポレオンの個人的な力は、われわれになにかきわめて特別なもののようにおもわれる。というのは、それに似たさまざまの力は可能性から現実性に変らなかったからである。そこで、もしもナポレオンがいなっかたらどうだっただろうか、ときかれると、われわれの想像はこんがらがって、彼の力や影響のもととなっていた社会運動はすべて、彼がいなかったらまったくおこらなかっただろう、とおもわれるのである。
 それにくらべれば、人類の知的発展の歴史のなかで、ある個人の成功が他のものの成功を妨げることはまずめったにない。だが、このばあいでも、われわれはまえにいった錯覚からまぬがれない。社会のある一定の状態が、その社会の精神的な面の代表者に一定の問題を提起すると、その問題がうまく解決されるまで、すぐれた知能の持主の注意はそれにひきつけられる。だが、いったんそれがうまく解決されると、彼らの注意はべつの対象にむけられる。

ゲオルギー・ヴァレンチヴィチ・プレハーノフ

「歴史における個人の役割」