2017年2月22日水曜日

激しい飢餓は狂暴の嵐の中で、力の弱い者が強いものの餌食になる

  自然と真理とを研究するだけでは賢人には不足である。考えることを欲しまたできる少数の人のために、進んでこれを述べる義務がある。けだし、その他の人々、自ら進んで偏見の奴隷となっている徒輩に至っては、蛙に羽で飛ぶことができないと同様、かれらが真理に達することは不可能の業だからである。
 もっとも賢明な連中は、魂はただ信仰の光によってのみ、自らを識ることができる。しかも道理のわかった人間という資格で、精神なる言葉によって聖書がなにを意味しようとしたかをしらべてみる権利は、これを留保しうると信じたのである。聖書は、人間の魂を語る際に、この言葉を用いている。さらに神学者たちは他のすべての点に関して相互の間に果たしてこれ以上の一致を見せているであろうか。
 神なるものがあるとすれば、それは自然界の創造者であり、同じく天啓の創造者である。神は一方を說明するために、他方をわれわれに与え、さらに両方を調和させるために理性を与えたのである。生物体の中から汲みとりうる知識を信用しないことは、自然と天啓とを、相互に衝突しあう二つの相反したものとして眺めることであり、従って、神はその数多くの創造者において矛盾し、われわれを欺くものとなり、途方もないことを、大胆にも指示することになる。
 人間はきわめて複雑な機械である。一挙にしてあきらかなる観念を持つことは不可能であり、従ってこれを定義することは不可能である。獰猛性は他の原因からもきているが、教育の力を借りなければ無力にすることはできない。この獰猛性は魂の中に傲慢、憎悪、他国民への蔑視、不柔順、およびその他の感情をつくりだすが、これらのものが性格を低劣にさせるのである。激しい飢餓はじつに極端なところまでわれわれを押しやるではないか! 自分が生命を貰った生命、ないし自分が生命を与えた生命に対してさえ見さかいがつかなくなってしまい、牙をむき出してこれを引き裂き、恐ろしい饗宴を始める。人を無我夢中にするこの狂暴の嵐の中で、力の弱いものが強いものの餌食になる。
ド・ラ・メトリ著「人間機械論」