深い真理は尊大な態度で立ち現れない。いわんや重苦しい屈辱がわれわれ海外で福音を宣べ伝えているもの一同を待ち受けているにおいてをやである。『どこにいったい汝らの倫理的宗教はあるのか』とかれらはわれわれに問う、それが原生林の原始人であっても或いは極東の教養人であっても。キリスト教が愛の宗教として果たしてきたものは、それがキリスト教国民を平和愛好心に教育するに十分なだけ強くなかったことにより、またそれが(第一次)大戦当時なおあのようなはなはだ世俗的にして憎むべき心術と結託した、ということ、しかり今日もなおまだそれらから絶縁していないということによって、払拭されたものと考えられる。身の毛のよだつ仕方でそれはイエスの精神に不忠実となった。われわれが海外で福音を宣べ伝えるばあい、この悲しむべき事実については何も否認しないよう又何も体裁を飾らないようにしよう。われわれはあまりにたやすくイエスの精神をもっていると思い込んでいたために、それを深く堕落したのである。いまやイエスの精神そのものをもとめるより真剣な闘いがはじまるべきである。
今日海外で福音を宣べ伝えていて、われわれは、ひとたび(第一次世界大戦の)敗戦を経験したがようやくもういちど強くならなければならない一つの軍隊の前哨なのである。しかしわれわれは勇敢な前哨でありたい。人間のいかなる誤りもまたいかなる不忠実も、イエスの福音からそれがそのなかに担っているいる真理を取り去ることはできない。そしてただ真の「世界とは異なる存在」においてあるわれわれ自身に、生き生きとした倫理的の神によって捉えられた状態の幾分かが啓示されるとき、そのときイエスの真理はわれわれから発するのである。
アルベルト・シュヴァイツェル「キリスト教と世界宗教」