2017年2月4日土曜日

多数決原理は平等ではなく自由の理念から導き出される

 自由の理念から、多数決原理が導き出されるべきものであってー一般に考へられるのを常とするようにー平等の理念からではない。しかしこの平等である、ということは、単なる想像であって、人間の意思や、人間の人格を、有効に測量し、計算するということが出来ることを意味しない。多数の票が少数の票より、大なる全重量を持っている、という理由を以て、多数決原理を是認することは、不可能であろう。
 ある者が他の者に少しも値しないという、純粋に否定的な推定からは、多数の意思が妥当せねばならぬということを、未だ積極的に推論することが出来るものではない。若し多数決原理を、平等の理念だけから導き出そうと試みるならば、それは独裁主義の立場から非難するように、事実あの純機械的な、しかのみならず無意味な性質を持つことになる。
 多数者が少数者より強い、ということは、辛うじて構成せられた経験上の表現にすぎないであろう。そして「力は正義に勝る」という格言は、それ自らを法文に高める限りにおいてのみ、克服せられるであろう。ただーたとひ凡てではなくともー出来るだけ多数の人間が自由である、即ち出来るだけ少数の人間が、彼等の意思と共に、社会秩序の普遍的意思と矛盾に陥らねばならなぬ、という考えだけが、多数決原理への、合理的途上に導くものである。
 その際、平等が、当然にデモクラシーの基本仮定として、前提せられるということは、この者が少しもかの者に値しないから、直ちにこの者又はかの者が、自由でなければならなぬ、というのではなく、出来るだけ多数の者が、自由でなければならぬ、という点に表明される。そこで、国家意思の変更を来すために、より少ない個人意思と合致することが、必要となればなるほど、個人意思と国家意思との一致符号は、ますます容易になる。絶対的多数は、ここに事実上、最高の限界を呈示する。国家意思が、その成立の瞬間において、より多くの個人意思と一致するよりは矛盾する、という可能性は、より少なくなるであろうし、少数が国家意思をーその変更を妨げることによってー多数と反対して決定することが出来る、という可能性は、ますます多くなるであろう。
ハンス・ケルゼン「デモクラシーの本質と価値」