2017年2月24日金曜日

歴史は諸々の武器や道具の過程の跡をたどる

  歴史が力動的なもの、運動的なものと考えられる場合には、その経済的・産業的側面が協調される。経済的・産業的側面とは、人類が不断にとりくんでいる問題、すなわちいかに生活すべきか、自然をして人間生活の豊富化に貢献せしめるようにするには自然をどのように駆使し利用すべきかという問題をいいあらわす専門的な用語にほかならない。文明における諸々の偉大な進歩は、人間をその不安な自然への服従から引き上げ、いかにして人間が自然の力を人間自身の目的に協力せしめることができるかを人間にしめしたところの知性の発現をとおしてもたらされたものである。子どもが現在そのなかに生活している社会的な世界はあまりにも豊富であり潤沢であるから、それがどれだけ値打ちのあるものか、その背後にどれだけの努力と思考がよこたわっているものかを看取することは容易ではない。人類はいまやお膳立てをされた巨大な支度をもっている。子どもはこれらのすでに出来上がっている資産を流動的な形に置きかえるようにみちびかれることができる。子どもは、受け継がれた資本をもたずに、道具をもたずに、加工された材料をもたずに、自然とじかに向き合った人間を直視するように導かれることができる。
 かくして一歩一歩、子どもは人間が自己の状態の諸々の必要を認識し、これを使用することによって、それらの必要に応じることができるようになる諸々の必要を認識し、これを使用することによって、それらの必要に応じることができるようになる諸々の武器や道具を考えだした過程の跡をたどることができる。そして、いかにこれらの新しい資力が新しい発展の天地をひらき、新しい諸々の問題を生み出したかを学ぶことができる。人類の産業史は唯物論的な、すなわちたんに功利主義的なことがらではない。それは知性の問題である。産業史の記録は、いかにして人間が思考することを学び、思考して或る結果を生じせしめることを学び、生活そのものが違ったものになるようになねように生活の状態を変改することを学んだかの記録である。それはまた倫理的な記録でもある。すなわち人類がその諸々の目的に仕えるために忍耐づよくつくりだしたところの諸状態の説明書でもある。
ジョン・デューイ「学校と社会」