2017年2月10日金曜日

歴史的戦争は両国民性の特有の相違により異なる

  もちろん歴史は種々なる原因の相働く跡をのぼるものと考えることができるであう。しかしかくその跡をのぼるというのは、単にのぼる為にのぼるのではなくして、これによってその事件の個性を現すためではなかろうか。例えば、ここに二人の人物があって、その一人は強き性格を備え常に周囲を支配し、他の一人は弱気性格を備え、常に周囲から支配されるるとせよ。歴史家はこれらの人の事蹟を単にいわゆる強き原因に従って無意義に羅列するであろうか。強き人は強くして他を支配する所に、弱き人は弱くして他から支配せられる所に、各人特有の個性を表そうとするのではなかろうか。
 例えば、ある歴史家がフランス革命の事蹟及び原因をあきらかにしたとせよ。ドイツにおいて同一の事情が及び原因があったとしても、ドイツにおいてはフランスの如き性質の革命は起こらなかったかも知れない。これは両国民性の相違によると見るべきであろう。同一の原因であっても、ある国民にはある事件の原因となるが、ある国民においてはその原因とならぬということとなる。すなわち歴史的効力というのも国民性によって異なってくるといわねばなるまい。
 歴史的効力によってある事件の原因をあきらかにするということと、国民性の理解という如きことと相離すことはできないであろう。歴史において原因結果を明らかにするのは、自然科学においてのように因果関係を明らかにするのではない。因果関係を明らかにうることによって個性を明らかにするのである。ことごとく歴史においては個性が明らかにすることによって個性を明らかにするといえば、そこに論理の循環があると考える人も人もあろう。もちろん歴史家もある一事件の因果関係を明らかにしない前に、その個性を明らかにできるはずはない。ただその因果関係を明らかにするのは、因果関係のためにこれを明らかにするのではなく、個性を明らかにする為であるというのである。
西田 幾太郎「思索と体験」