古来人々は、ある事物、ある形式、ある制度の顕著な目的または功用は、またその発生の根拠をも含んでいる、例えば、眼は見るために作られ、手は掴むために作られた、と信じてきたからだ。そして同様に人々は、刑罰もまた罰するために発明されたものだと思っている。しかしすべての目的、すべての功用は、力への意志があるより小さい力を有するものを支配し、そして自ら一つの機能の意義を後者の上に打刻したということの標証にすぎない。従ってある「事物」、ある器官、ある慣習の全歴史も、同様の理由によって、絶えず改新された解釈や修整の継続的な標徴の連鎖でありうるわけであって、その諸多の原因は相互に連関する必要がなく、むしろ時々単に偶然的に継起し後退するだけである。してみればある事物、ある慣習、ある器官の「発展」とは、決して一つの目標に向かう《進歩》ではなく、まして論理的な、そして最短の、最小の力の負担とて達せられる《進歩》では更ない。
フリードリヒ・ニーチェ「道徳の系譜」
フリードリヒ・ニーチェ「道徳の系譜」