こうしたさまざまな不幸の原因は、一部は社会制度の中に、一部は個人の心理の中にあるーもちろん、個人の心理は、それ自体、多分に社会制度の所産であ。私は、以前、幸福を増進するために必要な、社会制度の改革について書いたことがある。戦争、経済的な搾取、残酷さや恐怖をたたき込む教育、これらの廃止について本書で語るつもりは、私にはない。戦争を回避する方法を発見することは、私たちの分明にとって絶対的には必要である。しかし、人々が不幸なあまりに、一日一日を耐えて生きつづけていくよりも互いに殺戮しあうほうが恐ろしくないと思われるようである間は、そういう方法が見つかる見込みはない。
機械生産の恩恵に、それを最も必要とする人びとが少しでもあずかれるようにするためには、貧困の恒常化を避けなければならない。しかし、金持ち自身が不幸であるとしたら、万人を金持ちにしたって、なんの足しになるだろうか。残酷さや恐怖をたたみ込む教育はよくないが、自らこういう情念のとりこになっている人たちからは、それ以外の教育を期待することはできない。このように考えてくると、いきおい、個人の問題に突き当たる。つまり古きよき日をなつかしむだけの今日の社会の只中にあって、男性や女性は、いつまでここで幸福を勝つ取るために何ができるか、ということだ。
こうした不幸は、大部分、まちがった世界観、まちがった道徳、まちがった生活習慣によるもので、ために、人間であれ動物であれ、結局はその幸福のすべてがかかっている。実現可能な事柄に対するあの自然な熱意と欲望が打ち砕かれてしまうのである。こういうことは個人の力でなんとかなる事柄である。そこで、私は、人並みの幸運さえあれば、個人の幸福がかつ得られるような改革を示唆したいと思うのである。
バートランド・ラッセル「ラッセルの幸福論」