近代の日本は、あらゆる大国に顕著に見受けられる一つの傾向を最も明瞭に示している。つまり、国家を偉大にすることを教育の至上目的とする傾向である。日本の教育の目的は、感情の訓練を通じて国家を熱愛し、身につけた知識を通じて国家に役立つ市民を作り出すことにある。この二重の目的を追求する際に示された見事な腕前である。
ペリー提督の小艦隊が到来して以来、日本人は、自己保存が非常に困難な状況に置かれていた。自己保存そのものがけしからと考えるのでないかぎり、彼らがそれに成功した以上、その教育方法も正しかったことになる。しかし、彼らの教育方法は、絶望的な状況にあったからこそ正しかったのであって、どんな国民であれ、差し迫った危機にさらされていない場合はけしからぬものであったろう。
神道は、大学の教授さえも疑問をはさむことを許されないもので、そこには「創世記」と同じくらい疑わしい歴史が含まれている。日本の神学上の圧政に比べれば、デイトンの裁判も顔色を失って、瑣末なものになってしまう。これに劣らぬ道徳上の圧政もある。たとえば、国家主義、親孝行、天皇崇拝などは疑いをさしはさんではならないものであり、したがって、さまざまな進歩がおよそ不可能になる。この種のかんじがらめの制度は、唯一の進歩の方法として革命を誘発しかねないという大きな危機をはらんでいる。この危険は、いますぐというわけではないが、現実のものであり、主として教育制度に起因しているのである。
近代の日本には、古代の中国の欠点とは正反対の欠点が見出される。中国の知識階級があまりにも懐疑主義的で怠惰であったのに対して、日本の教育が生み出した人間は、あまりにも独断的で精力的になるおそれがある。懐疑に黙従することも、独断に黙従することも、教育の生み出すべきものではない。教育が生み出すべきものは、たとい困難ではあっても、知識はある程度獲得できるものであり、知識はある程度獲得できる。知識の誤りは注意と勤勉さにより正すことができる教育である。
このように、近代の日本には、中国の知識階級があまりにも懐疑的で怠惰であったのに対して、日本の教育が生み出した人間は、あまりにも独断的で精力的になるおそれがある。懐疑に黙従することも、独断に黙従することも、教育の生み出すべきものではない。
独断論者も懐疑論者はともに誤っている。その誤りが世にはびこれば、社会的な災害が引き起こされる。
バートランド・アーサー・ウィリアム・ラッセル「ラッセル教育論」