わたしたちイギリス人の間では家族の結束はずっと弱いといえます。自分だけ金持ちでも仕方ないのでもちろん他の人の助けはしますが、家族に対する態度を比べると日本人とわたしたちの間には大きな違いがあります。一万キロも離れていることによる違いです。ここ東洋では個人の自由は重要ではありません。日本人は国民の幸せのためには個人の権利を放棄しなくてはならないと考えます。それで個人の自由を大切にする私たち西洋人が、日本時と同じように国民の幸福を望んでいることが理解できないのです。
現在の変化しつつある世の中では、よいものを一部の人が占領するのではなく、みんなが共有するためには自由を制限を加える必要があるというのはもっともな意見で、私たちイギリス人も賛成です。それでも私たちにとっては命ともいえる個人の自由を放棄することは拒みます。どちらを向いたも目に入る他国の重苦しい全体主義の考えより、個人の自由を尊重する私たちの考え方がいいと思います。
過程の中の一員が、その家族にとって資質を持つことがあります。肉体的な欠陥ならともかく、思想上の欠陥の場合には、例えば、旺盛な探究心に取り付かれたというような場合には、家族の中心的な人たちは、このまま放っておくと、一族の昔からの平和が荒らされることをちょ感敵に感じ取ります。あるいは、彼の方が自由を拘束する慣習に従おうとしないかもしれません。そんな時は、大人たちが勝手に本人のためと考えて、家族全員で事の解決にあたります。いかなる行動を起こすにせよ、両者ともに伝統に従って厳かに行います。何世紀にもわたって培われてきた家族に対する愛情は、その家独特の階層を作り出し、下の者は上に従順で礼儀正しく、またお互いが、あまり自由がない組織の中でできる限りの思いやりを持つようににりました。ある個人を愛するという自然で強い感情が、日本では、家族の愛に取って替わったのです。従って、団結した家族とその外の世界との境界線はイギリスよりもはっきりしています。
キャサリン・サムソン「東京に暮らす living in Tokyo 1928-1936」