2016年8月18日木曜日

戦争は政府の道具と賭博

  政府は、戦争を道具として使役する。そこで政治は本性から必然的に生じる一切の峻厳な帰結を回避し、また遠い将来にに可能となるような成果などには眼もくれずに、ひたすら手近かにある確からしい成果だけに心を配るのである。そのために事態全体が甚だしく不果実なものとなり、戦争は一種の賭博となる。そこで各国の内閣に操られる政治は、この博打における練達な技量と洞察力とにかけては我こそ敵に勝る天晴れな者よと、自負して、互に功技を競い合うまである。
 このようにして政治は、戦争の本領、即ち何ものをも征服せねば止まぬ激烈な性質を骨抜きにして、戦争を単なる道具に化すのである。本来の戦争は、いわばもろ手で柄を握り懇親の力をこめて振り上げ、一度打ちこめば二度とやり直しのきかない太刀のようなものである。ところが政治の手にかかると、この太刀も華奢な細身の剣となり、それどころか時には試合力ともなり、政治はこれをもって突き、ファント、パラド等の技を自在にこなすのである。

カール・フォン・クラウゼヴィッツ「戦争論」