我々は、以前に最も確実と考えていた他のことについても疑うであろう、即ち、数学的証明についても、また今まで自明と信じていた諸原理についても。なぜならば、かつて幾人かの人が、かようなことにおいて誤りを犯し、我々には誤りと思われたことを、最も確実で自明的だと認めていたようなことを、我々は知っているし、またとりわけ、一切を為すことができ、かつ 我々をも創造した神が、存在することを聞いているからである。というのは、我々が自分に最も明白に見えることにおいてさえ、いつでも思い違いをするような工合に、神が我々を創造しようと欲しなかったかどうかは、我々にはわからないであろう。なぜならそうしたことが起こり得たことは、我々が前に気付いていることだが、我々が時に思い違いをすることがあるのに劣らず、あり得ることだからである。そして我々が全能の神によってではなく、我々自らによってか、或いは何であれ他のものによって存在するのだと創造するならば、そうした我々の創造者の力を小さく見積もれば見積るほど、我々がいつも思い違いをするほど不完全だということも、いっそう信じ得ることであろう。
我々が何らかの仕方で疑い得る一切のことを斥け、かつ虚偽であると考えることによって、我々はなるほど神も天も諸物体も存在せず、また我々自ら手も足も、そしてついには身体をも有しないと創造することは容易であろう。しかしその故に、かようなことを思惟する我々が、無であるとは創造することはできない。というのは思惟するものが、思惟しているその時に存在しないことは不合理だからである。それ故に、「我思惟する故に我あり」(ego cogito, ergo sum)というこの認識は、一切の認識のうち、誰でも順序正しく哲学する人が出会う最初の最も確実なものなのである。
ルネ・デカルト「哲学原理」