2017年1月26日木曜日

絶対ではなく有限な悟性による戦争の対立

  知識と行為の対立もその他のすべての対立と同じである。すなわちそういう対立は、各項がそれだけで絶対的にとらえられず、したがってただ有限な悟性によってのみとらえられる限りにおいてのみ存在するのである。対立がなされる根拠は、知識と行為とのともに不完全な概念の中にあるだけであって、そういうことは知識が行為に対する手段として理解されることによって起こるともいえる。本当に絶対的行為に対しては知識は決して手段という関係にはありえぬ。なぜなら、そういう行為は絶対的である以上、或る知識によって定められはしないのだから。知識においてもそうであるが、その同じ統一は行為においても形成されてそれ自身に根拠をもつ一つの絶対的な世界となる。ここでは現象する行為や現象する知識が問題なのではない。そういうものは各々他に対する対立においてのみ実在性をもつのだから、他とともに生滅する。
 上で述べたような知識と行為の絶対的統一の意味を理解しないものたちは、それに反対して次のような俗論をもち出すのである。すなわち、知識と行為とが一であるならば、行為は常に知識から続いて起こらなくてはならぬわけだが、人々はしかし正義やそれに類したことをよく知っていても必ずそのゆえにそれをなすとは限らぬ場合が往々ある、というのである。行為が知識から続いて起らぬという点で彼らは全く正しい。彼らが間違っているのは、ただそういう序列を期待する点にある。彼らは絶対的なものの間の関係を何も理解していない、知識と行為という特殊の各々が、それだけで無制約であり得ることを理解しない、そして一方を目的という点のみ着眼し、他方を手段という点にのみ着眼して、相対者としてしまうのである。
フリードリヒ・シェリング「学問論