2017年1月18日水曜日

君主の野心や貪欲が市民に戦争を招きよせる

   専制君主は彼の臣民に社会の安寧を確保する、というひともあろう。いかにも。しかし、彼の野心が臣民たちに招きよせる戦争や、彼のあくことなき貪欲や、彼の大臣どもの無理難題が、臣民たちの不和がつくり出す以上の苦しみを与えるとしたならば、臣民たちは何のうろところがあろう? もし、この安寧そのものが臣民たちの悲惨の一つであるならば、彼らは何のうるところがあるだろう? ひとは牢獄のなかでも安らかに暮らせる。だからといって、牢獄が快適だといえるか? キクロポスのほら穴に閉じ込められたギリシア人たちは、食い殺される順番がくるまでは、そこで安らかにに暮らしたのである。
 一人の人間が、ただで自分の身をあたえるなどというのは、ばかばかしくて想像もつかぬことである。こうした行為は、それをやる人が思慮分別を失っているという、ただそのことだけで、不法な行為なのだ。それとおなじことを人民全体についていうのは、人民を気ちがいとみなすことである。ところで、狂気からは何の権利も生まれない。
  自分の自由の放棄、それは人間たる資格、人類の権利ならびに義務さえ放棄することである。何びとにせよ、すべてを放棄する人には、どんなつぐないも与えられない。こうした放棄は、人間の本性と相いれない。そして、意思から自由を全くうばい去ることは、おこないから道徳性を全くうばい去ることである。要するに、約束するとき、一方に絶対の権威をあたえ、他方に無制限の服従を強いるのは、空虚な矛盾した約束なのだ。もし、ある人にすべてを要求しうるとすれば、その人から何の拘束もうけないことは明らかではなかろうか? そして代償もあたえず、交換もしない、というこの条件だけで、その約束行為は無効だということにはなりはしないか? なぜなら、わたしのドレイはわたしにたいして、いかなる権利をもつであろうか? というのは、すべて彼のものはわたしのものであり、また、彼の権利はわたしの権利であるからには、この権利はわたしに対するわたしの権利ということになり、それは何の意味もない言葉だから。
ジャン-ジャク・ルソー「社会契約論」