2017年1月9日月曜日

植え付けられた思想感情が内外なる圧迫

 我々が未だ意識的にならなかった時、教育という美名の下に有意的に、また無意識的に伝来の思想感情はそのまま、無垢な心に、何等の疑問も選択も、批評も研究もなく無造作に植え付けられた、そこに根を下ろした。社会の風習、常識、世論などと称する肥料は日夜に供給せされ、かくしていつか根ざし深き頑強な幹ある大樹となった。我々は初めその大樹を真の我だと少しも疑わなかった。その時我々は内外に何の的も、圧迫ももたなかった。
 しかし、真の我はそういつまでも大樹の下に、僭王の脚下に安眠を貪ってはいなかった。かくの如くして我々の内に、真の我が、新しき生命が醒めたのは実は昨日今日のことではなかった。真王は早く僭王の前に反旗を翻した。内なる新しき者は内なる旧き者に早くも反抗を試みていたのだった。けれど新しきものの芽ぐまんとするとき旧きものは何らかの威厳あるものの如き声音もて「待てよ、待てよ」と常に叫んだ。たまたま固き地盤を破って萌え出た若芽も老木の影にその発育ははかばかしいものではなかった。
 ここにおいてか、我々は新しき者よと唱えるその同じ心において、「教えられし言葉そのままくりかえす鸚鵡となりて世にいきむやは」実にこれは悪戦であった。しかもかなり久しい悪戦であった。そして今や我々は内なる敵の征服者、勝利者として現れ出た。
 私は今、内なる敵に打ち勝ったといった。内なる圧迫と久しく戦った我々は今や新しき者として更に外なる圧迫を迎えねばならぬ運命に遭遇した。外なる圧迫の到来は内なる圧迫における我々の勝利の証明である。とはいえ内なる圧迫の絶滅は容易なわざではない。被征服者は常に征服者の弱点を狙っている。そして間隙さえ見い出せばいつでもまた頭をもたげようと待ちかまえている。

平塚明「平塚らいてう評論集」『青鞜』3巻6号、1913年6月