2017年1月31日火曜日

特殊な信仰と他の信仰の利害で死活する

 信じた方がわれわれにてとってよりよいものは、その信仰がたまたまわれわれの死活を決するような他の利害と衝突するような場合を除いては、真であるといった。ところで現実の生活において、われわれのもっている何か特殊な信仰がもっとも衝突しやすいわれわれの死活を決するような利害とは何であろうか。ほかでもない、それははじめに抱いていた信仰と両立しないとわかる他の信仰によって与えられる利益なのである。
 いいかえると、われわれの真理のどれでも最大の敵は、われわれが現にもっている真理以外の真理であろう。真理というものはもとより自己保存および自己に矛盾するものは何もかにも絶滅しようとする欲望、このすさまじい本能をもったものである。私にもらしてくれる善のゆえに、わたしの抱く絶対者にたいする信仰は、それ以外のすべての私の信仰から猛攻撃をうけねばならない。いまかりに絶対者への信仰は私に精神の休暇を与えてくれるから真であるとしてみよう。それにもかかわらず、私の考えるところではーいま私がいわば本心をさらけ出して、ただ私一個人の資格でいうのであるがー絶対者への信仰は、絶対者のためだからといって見すてるのにしのびないさまざまな利益をもった私の真理と衝突する。
 それはもしかすると私の大嫌いな一種の論理を連想させるかもしれない、するとそれが肯いがたい形而上学上のいろいろな逆理に私をまき込もうとするのに気づく、等々。ところが私はこのような知的な矛盾を背負いこむまでもなく既に人生の苦労を十分をもっているのであるから、私ならそんな絶対者などはあっさり放棄してしまう。私はただ精神の休暇だけをすなをに採用するか、でなければ、専門哲学者らしく、何か別の原理でそれを正当化しようと試みる。
ウィリアム・ジェイムズ「プラグマティズム」