2017年4月27日木曜日

免れぬ戦争の追憶は後方に向い反復で前方に向かう

  反復は、ギリシア人が「追憶」といったものをあらわす決定的な言葉だからである。ギリシア人は、あらゆる認識は追憶であると教えたが、同じように新しい哲学は、全人生は反復である、と教えるだろう。反復と追憶とは同一の運動である、ただ方向が反対であるというだけである。つまり追憶されるものはすでにあったものであり、それが後方に向かって反復されるのに、ほんとうの反復は前方に向かって追憶される。だから反復は、それができるなら、ひとを幸福にするか、追憶はひつを不幸にする。むろん人間は生ま出たからには、せめてしばらくなりとゆっくり生きてみるとしたもので、生まれ落ちるとすぐに、例えばなにかを忘れたものをしたというような口実を設けて、人生からそっと引き返したりしないものと前提してのことであるが。
 人生は反復であり、そして反復こそ人生の美しさであることを理解しないものは、手ずから自分に判決をくだしたも同然で、しょせん免れぬ運命、つまり自滅のほかあるまい。思うに、期待はひとをさしまねく果実ではあるが、腹の足しにはならぬ。追憶はまことに心細い扶持で、これまた腹を満たすには足りない。ところが反復は日々のパンである、それは祝福をもって満腹させてくれる。ひとたび人生を周航してみれば、人生が反復であることを理解するたけの勇気をもてるかどうか、また反復を楽しむ気持ちになれるかどうかが明らかになるだろう。生きることをはじめる前に、まず人生の岸辺を周航しなかったものは、決して生きることにはならないだろう。人生を周航してみたがうんざりしたというひとは、虚弱な体質の持ち主だったのだ。反復を選んだものだけがほんとうに生きるのである。
セーレン・キルケゴール「反復」

2017年4月25日火曜日

戦争の苦しみは平時に直ちに忘却して悪意で外国を判断する。

  戦争本能が必要であったし、それは自然的と呼ばれ得るような残忍な戦争を目的として存在していたのであるから、単に武器を錆びさないためにも、多数の偶発的戦争が行われた。さて、戦争が始る際の民族の熱狂を考えてみよ! もちろん、そこには恐怖に対する防衛的反応、勇気の自動的鼓舞がある。しかし、そのにはまた、あたかも平和とは二つの戦争の間の一休止に過ぎないかのように、自分は危険と冒険の生活のために作らていたのだという感情もある。熱狂はやがて静まる、なぜなら苦しみが甚だしいからである。
 戦争の苦しみは平時にあってはどうして直ちに忘れられてしまうのであろうか、というこは知りたい点である。婦人には分娩の苦痛を忘却させるための特別なメカニズムが存しているーすなわち、あまりに完全な追憶は彼女が再度の分娩を欲するのを妨げるであろう。この種の何等かのメカニズムが特に若い民族にあっては戦争の戦慄の場合にも真実に働いているように見える。自然はこうした方面でなお別の種々な予防策を講じた。自然は、われわれと外国人との間に、無知や偏見や憶断で巧みに織りなされた幕を垂れ下げた。一度も訪れたことのない国を認識しないことは何等驚くべきことではない。しかし、その国の認識を持たないでその国を判断し、しかも殆ど常に悪意で判断するということは、說明を要する事実である。
アンリ・ベルグソン「道徳と宗教の二源泉」

2017年4月22日土曜日

善と悪は感じ方及び外的事物が印象づける度合いに依存する。

  われわれに憐憫の情や苦痛の観念を呼び起こす外的な表示の手段のうちで、盲人たちが強い印章をもつのはただ愁訴による場合のみだということから、一般に盲人たちは非人情なものではないかと思うわけなのです。一体、盲人にとって、小便をひっかける人間と、ぐずぐずいわずに潔く血を流す人間との間にどのような違いがあるのでしょう? われわれにしてみても、対象が遠く離れているか、或いは小さいために、視力の喪失が盲人に及ぼすのと同程度の効果を負わされたとしたら、われわれだって同情をもたなくなりはしませんか? それほどさようにわれわれの善はわれわれの感じ方、及び外的事物がわれわれに印象づける度合いに依存するのです! だからこそ、罰さえ怖れなければ、それが燕ほどの大きさに見えない距離で一人の男を殺すことは、多数の人にとっては、彼らの手で一匹の牡牛を絞め殺すよりはるかに楽なのだということを確信するのです。われわれが喘ぎ苦しむ一頭の馬にも憐れみを感じながら、何ら懸念なしに一匹の蟻を踏み殺しえるのは、これと同じ原理に支配されているのではないでしょうか?
  ああ盲人の道徳はわれわれとはなんと異なっていることでしょう? 聾者の道徳が盲人のそれとはまたかけ離れていることでしょうし、われわれより一つ余計に感覚をもつ生物がありとすれば、いかに慾目で見たところで、われわれの道徳を不完全なものだと思うことでしょうね?
ドゥニ・ディドロ「盲人書簡」

2017年4月18日火曜日

兵士は戦闘 では怒りの激情にのみに全てがとらわれる

 「人々は緊張した深い思索に沈っているときは、たとえ光波や音波が肉体的器官にふれても、見ることも聞くこともできない。然り人々はその時は肉体の痛みさえ忘れる。」しかしながら人々は激情におそわれているときもまた肉体の痛みをさえ忘れる。そして人々は感性的直感に夢中になっているときもまた音がきこえない。そしてまた人々は感性的直感に夢中になっているときもまた音が聞こえない。そして人々は、音に聞きほれるか、またはひたすらに緊張して或ることに耳を傾けているときも、物が見えない。それ故にまたわれわれは、妨害されずに聞くために、しばしば眼を閉じるのである。聞くときにはーもちろん興味をもって聞くときにはー人間は全身耳になり、または少なくともそうなろうと欲する。人間はまた見るときには全身眼になり、思索するときにはーすなわちもし彼が全体的な思索家または計算家であり、完全な思索家または計算家であるならばー全身頭になる。
 しかしながら視覚や聴覚について妥当することはその他の感覚や激情についてもまた妥当する。かくして人間は怒りの激情にとらえられている際は傷の痛みを感じない。そしてそれは丁度兵士が戦闘中の真最中に傷の痛みを感じないのと同様である。しかしながらそれは単に、人々は二人の主人に同時に仕えることができないという格言が、道徳においてと同様心理学においても価値をもっているという、単純な理由によってに過ぎない。私は二つの場所に同時にいることができない。それと同様に私は同時に、激情の競技場または眼の激情および脳髄の研究室に現われかつ活動することができない。私がいるところ、そこには私は全身をもって・分割されずに・肉体および頭または心をもっておらねばならない。また私があるところのものであるものは、全身をもってであり・分割されずにであり・肉体および頭まては心をもってなのである。
ルードヴゥ匕・アンドレアス・フォイエルバッハ「唯心論と唯物論」

2017年4月15日土曜日

或る戦争が悪いとは普遍的概念や一般的概念と一致する意味である。

  善及び悪が理性の有に属するかそれとも実的有に属するかということである。しかし、善及び悪は単に関係を表すものにほかならぬから、それが理性の有の中に入れられるべきことは疑いがない。或るものが善いと言われるのは、それほど善くない或る他のもの、或はそれほど我々に有用でない或る他のものに関係してのみ言われるからである。例えば、或る人間が悪いと言われるのは、より善い人間と比較してのみ言われるのであり、或るリンゴが悪いと言われるのも、善い或はより善い他のリンゴと比較してのみ言われるのである。
 すべてこうしたことは、比較してそう呼ばれる他のより善きものが存在しなかったとしたら言われ得なかったであろう。
 従って或る物が善いと言われるのは、それがそうした物について我々の有する普遍的観念や一般的概念と一致すると言う意味にほかならない。
 しかし、我々が前に述べたように、物はその個別性と一致すべきである。個別的観念の対象のみが真の実在性を有するのであるから。そして決して普遍的観念と一致すべきではない。普遍的観念と一致すればそれは全然存在しないものになるであろうから。
 自然の中に存在するすべてのものは事物か作用かである。しかるに善及び悪は事物でも作用でもない。故に善及び悪は自然の中に存在しない。もし善及び悪が事物か作用かだとしたら、それは自らの定義を持たねばならなぬ。しかし、善及び悪は本質を離れて何らの定義されえないからである。
バールーフ・デ・スピノザ「神・人間及び人間の幸福に関する短論文」


2017年4月13日木曜日

死と共に神に属する魂は天に戻り全ての肉体は消滅する。

 わたしは、魂は肉体と同時に滅び、死と共に全てが消滅する、というようなことを最近説き始めた連中には同意しないからな。わしには昔の人々の影響が強いのだ。それは死者にあれほどの聖なる権利を与えた先祖たちとかー死者にはそんなものは無関係だと考えたなら、先祖もきっとそうはしなかっただろうがー、かつてこの地に住み、今はなくなったが当時は栄えていたマグナ・グラエキアの人々に制度や訓言を教えた人々とか、アポローンの神託で最高の賢者と判定された彼の人とかだ。この人は時によってああも言えばこうみ言うことが多かったが、そうはせずに常に同じことを述べたのは、人間の魂は神に属するもので、肉体を離れるや天に戻ることになっている、そして心正しく秀れた人であればあるほど天への帰還は容易である、ということであった。
 秀れた人であればあるほど、死んだ時その魂は容易に、肉体といういわば獄のいましめから飛び去るものであるなら、神々の許に到る道がスキーピオーほど容易であった人が考えられようか。それだから、彼に起こったことを悲しむのは、友人のすることというよりむしろ焼き餅やきのすることではないかと思う。
 他方もし、魂の死と肉体の死は同じもので、後には何の感覚も残らない、というのがより真実に近いなら、死には何の善きこともないのと同様、何ら悪しきことがないのも確かだ。なぜなら、感覚がなくなれば、そもそも生まれなかったのと同じことになるわけだから。実際は、彼が生まれたことを嬉しく思うわれわれがいるし、この国も存在する限り喜びとするであろう。
マルクス・トゥッリウス・キケロー「友情について」

2017年4月11日火曜日

殉教者が不屈であればあるほど迫害者も残虐の度を増す

  サン・パウロの寺のそばから馬車に乗ってローマの郊外をぽかぽかと走らせ、ドミチリアのカタコンベという古い墓を見に行った。この前おおぜいで見たカリストのカタコンベの近くで、地上は牧場になっている丘であるが、地下に狭いトンネルを作って、その左右に墓穴がある。古代のローマの貧民が、地上に墓地が買えないため、地下の穴を墓地にしたのだという。『クォ・ヴィディス』でよく知られているように、初期のキリスト教徒はそこを集会場などに使った。秘密結社の運動に加わることを「地下にもぐる」と言い現すのは、ここから始まったことである。初期キリスト教時代の壁画や石棺類が残っている。

 この前にもちょっと書いたが、地上には平和なのどかな牧場があるのに、そのすぐ下の地画の中にこういう陰惨なものがあるのは、よほど妙な気持ちのものである。ローマ時代の貧富の階級の距たりや、初期キリスト教の殉職的な戦いなどが、いかに深刻なものであったかをつくづく思わせる。日本人などは、未来は知らないが、これまでにこれほど深刻な人間の争いは経験しなかったように思わせる。武家階級ができて以来、ずいぶん戦争は多いが、しかしそれらは、ギリシアの古代のように、何となく競技的性格を持ったものである。

 ただ一つ比較できるのは、キリスタン迫害であろう。ローマではキリスト教徒を数珠つなぎにして猛獣に食わせるというような残虐な迫害をやったというが、日本ではそれほどでなくとも相当残虐な手を使っている。殉教者が不屈であればあるほど迫害者も残虐の度を増すのである。しかし日本では、ローマのように地下にもぐることができなかった。日本の土地は湿気が多くて到底地下の住居を許さないのである。はなはだ比喩的になるが、日本の湿やかさは人間の争いを深刻ならしめない。 

和辻 哲郎「イタリア古寺巡礼」

2017年4月9日日曜日

生活要約の変化が独立性の消失や変異の唯一の原因ではない。

 これまで確実に知られていることは、多くの観賞花卉の花の色は、非常に変わり易い形質であるということに止まっていた。諸種の花卉は、栽培すると、その安定性が高度に乱されることになり、或はそれが全然破られてしまうという意見を発表した人達はしばしばあった。そして栽培植物の発達は、全く規則に当てはまらぬもの、偶然なものであるとするのが、大部分の傾向である。それで不安定的なものの見本として、観賞用花卉のはなの色が、よく引き合いに出されている。しかし、唯単に庭の土に植えるということだけで、如何にして、植物体に、それほど徹底的な、永続的な変革が起こるものであるかということは理解すべくもないのである。
 自然のままに生えている植物の発育が、庭園に植えられたものとは違った法則に支配されるものであるということを真面目に主張する人は、よもやありはすまい。これら両者のいずれにあっても、ある種のために生活要約が変わり、その植物にその新しい要約に応じて応化する性能があれば、必ず一定の変化が起こるはずである。栽培によって、新しい変わりものの発達が助成され、自然の状態にあっては、仮令形成されても、消失してしまうような変化でも、人手の力によれば、保存されることがあるのは勿論認められる。
 しかしながら、庭に植えるということが、変わりものを作る傾向を非常に強くして、それがために、植物の種がすなわちその独立性を失い、その子孫に高度の変更性をもつものが限りなく出て来るという想定は、正しいとするわけにはいかない。もしも生活要約の変わることが変異の唯一の原因であるとすれば、幾百年もの間、ほとんど同一なる要約のもとに育てられて来た栽培植物は、また再びその独立性を回復していると考えるべきである。実際は左様ではないことは、周知の通りであってそれらのうちには、種々様々であるばかりでなく、この上もなく変わりやすいものが見られるのである。
グレゴール・ヨハン・メンデル「雑種植物の研究」

2017年4月8日土曜日

理論的にならないで虚偽を意とせざるがために社会全般に弊害がかもされる

 日本は論理の進まなかった国であり、哲学は独創の体系を作らずして実地に活用することを尊び、すべのものが理論的にならないで運用することに長じたものであって、数学もまたその数に漏れず、理論的に発達したというよりも、芸術化されて問題の処理などが進んだのであるが、武士は算盤を手にすることを恥じたほどで、数学は卑しまれつつ発達したのであった。数学が尊ばれ、数学が重んぜられた、というようなことはほとんどないのである。数学のために多少地位を得た人や、多少待遇を進められた人などが、絶無ではないが、概して数学者は貧苦に甘んじて、世の軽蔑を意とせず、一心にこれが開拓を楽しんだのであった。
 この事情はけだし和算においてだけのことではない。日本ではいったいに知識や学問を楽しむという美風はあるが、これを尊ぶの精神はすこぶる欠如しているのではないかと思われる。明治大正時代になってもその風は決して改まらぬ。これについては特に一遍の文を起草している。
 和算家の間にかくも実際の作者と一致せざるものが多かったのは、明治大正時代に無名の書生の著訳が老大家の名義で出版される風のあったことと同じである。いずれも主として経済上の事情から来ているが、要するに虚偽を意とせざるの風あることをまぬがれぬ。最も論理的でまた最も正直であるべきはずの数学者ですらそうなのだから、他は推して知るべきである。和算家自身すでにあんな虚偽になれているほどで、知識の重んじることを知らないのであって、和算の重んぜられなかったのもままことにやむを得ないのである。日本人のこの性格は淵源するところ深く、近くは文相二枚舌事件の起こったのも偶然ではなく、虚偽を意とせざるがために社会全般にわたって多くの弊害がかもされている。和算家の間にあんな風の行われたのはただその一つの発現であったと見るべきである。
三上 義夫「文化史上より見たる日本の数学」

2017年4月6日木曜日

敵対する異教徒たちを救世主が聖別する

  赦された二人は仲間の所に行って、最高法院の大祭司連や長老たちが言ったことを報告した。聞くと彼等は一せいに、神に向かって声をはりあげて祈った。「主よ、"あなたは、天と地と海とそれらの中の一切の物をお造りになりました。" あなたはわたし達の先祖、あなたの下僕ダビデの口をもって、聖霊により、こう言われました。
 "なにゆえ異教徒たちは騒ぎたち
    民どもは空しいことをたくらむのか。
  地上の王たちは勢ぞろいし
   主権者たちは一緒に集まって
  主とその油注がれた救世主とに反抗する。"
 そして、この予言は成就しました。実際ヘロデ王と総督ポンテオ・ピラトとは"異教人らや"イスラエルの"民ども"と共に、"あなたに油を注がれて救世主として聖別された"あなたの聖なる下僕イエスに敵対してこのエルサレムの都に"集まり"あなたの力強い御心をもって実現しようとあらかじめ定められていたことを、なしとげられたからです。
 だから、今、主よ、彼等理のわたし達に対するおどかしをよく御覧ください。御手をのばして、あなたの聖なる下僕イエスの名のゆえに、癒しや徴や不思議なことを行わせてください。」こう彼らが祈りおわると、たちまち集まっていた所が揺れ、だれもかれも聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語った。
(ペテロ・パウロ)「新約聖書 使徒のはたらき」


  

2017年4月4日火曜日

優秀強力な言語は異なる言語を同化吸収し広範囲に同一言語を普及せしめる

 ある言語が広い地域にわたって話される時には、言語の変化は地方によって独自の過程を取りやすい。特に地方間の交流が少ない場合には個別的変化は著しい。かくして知らず識らずの間に言語の分化が行われる。分化による差が次第に大きくなつて、相互の理解を許さざるに至ると、かつては同一の言語の方言であったものももはや同じ言語とは認められず、かくして生じたおのおのの方言はまったく別個の過程を辿るようになる。
 分化に対してはそれに拮抗する力が働いている。共通の文化、政治的中心、文学等は分化に対して大きな力をもって対抗する。また分化によって生じたすべての方言ががおのおの独立の言語となるものではない。また文化的・政治的に優秀強力な言語は逆に多くの異なる言語を同化吸収して広い範囲に同一の言語を普及せしめる。言語にはかくのごとく常に個別化と平均化の力が拮抗して働いていて、言語の無限の分化を防いでいるのである。
 言語分化の代表的な例の一つは言語の所有者の移動によるものである。民族の移動そのものは言語変化の直接の原因ではないが、隔離せられた同一言語の所有者が異る環境において異る環境において異なる言語変化の過程を辿りやすいことは当然であって、両者の差は次第に大となり、ついに相互間の理解を許さなくなり、異なる言語となる。
 例えば往古において印欧語民族はしばしば大移動を行ったが、これが印欧語族分裂の一つの素因となったことはあらそえない。この民族の原住地がどこにあったのか不明であるが、歴史時代の黎明期、すなわち紀元前1000年の頃には彼らはすでに東はインドから西は欧州の西端にまで拡がり、彼らの間に多くの異民族が存在していた事実は、彼らが有史以前にすでに大移動をなし、広い地域に分散していたことを示している。歴史時代においてもケルト族やゲルマン民族の大移動があり、特にゲルマン民族の移動による分散とそれに伴う言語変化と分化の跡は文献的にも辿ることができる。
高津 春繁「比較言語学入門」