2017年4月22日土曜日

善と悪は感じ方及び外的事物が印象づける度合いに依存する。

  われわれに憐憫の情や苦痛の観念を呼び起こす外的な表示の手段のうちで、盲人たちが強い印章をもつのはただ愁訴による場合のみだということから、一般に盲人たちは非人情なものではないかと思うわけなのです。一体、盲人にとって、小便をひっかける人間と、ぐずぐずいわずに潔く血を流す人間との間にどのような違いがあるのでしょう? われわれにしてみても、対象が遠く離れているか、或いは小さいために、視力の喪失が盲人に及ぼすのと同程度の効果を負わされたとしたら、われわれだって同情をもたなくなりはしませんか? それほどさようにわれわれの善はわれわれの感じ方、及び外的事物がわれわれに印象づける度合いに依存するのです! だからこそ、罰さえ怖れなければ、それが燕ほどの大きさに見えない距離で一人の男を殺すことは、多数の人にとっては、彼らの手で一匹の牡牛を絞め殺すよりはるかに楽なのだということを確信するのです。われわれが喘ぎ苦しむ一頭の馬にも憐れみを感じながら、何ら懸念なしに一匹の蟻を踏み殺しえるのは、これと同じ原理に支配されているのではないでしょうか?
  ああ盲人の道徳はわれわれとはなんと異なっていることでしょう? 聾者の道徳が盲人のそれとはまたかけ離れていることでしょうし、われわれより一つ余計に感覚をもつ生物がありとすれば、いかに慾目で見たところで、われわれの道徳を不完全なものだと思うことでしょうね?
ドゥニ・ディドロ「盲人書簡」