「人々は緊張した深い思索に沈っているときは、たとえ光波や音波が肉体的器官にふれても、見ることも聞くこともできない。然り人々はその時は肉体の痛みさえ忘れる。」しかしながら人々は激情におそわれているときもまた肉体の痛みをさえ忘れる。そして人々は感性的直感に夢中になっているときもまた音がきこえない。そしてまた人々は感性的直感に夢中になっているときもまた音が聞こえない。そして人々は、音に聞きほれるか、またはひたすらに緊張して或ることに耳を傾けているときも、物が見えない。それ故にまたわれわれは、妨害されずに聞くために、しばしば眼を閉じるのである。聞くときにはーもちろん興味をもって聞くときにはー人間は全身耳になり、または少なくともそうなろうと欲する。人間はまた見るときには全身眼になり、思索するときにはーすなわちもし彼が全体的な思索家または計算家であり、完全な思索家または計算家であるならばー全身頭になる。
しかしながら視覚や聴覚について妥当することはその他の感覚や激情についてもまた妥当する。かくして人間は怒りの激情にとらえられている際は傷の痛みを感じない。そしてそれは丁度兵士が戦闘中の真最中に傷の痛みを感じないのと同様である。しかしながらそれは単に、人々は二人の主人に同時に仕えることができないという格言が、道徳においてと同様心理学においても価値をもっているという、単純な理由によってに過ぎない。私は二つの場所に同時にいることができない。それと同様に私は同時に、激情の競技場または眼の激情および脳髄の研究室に現われかつ活動することができない。私がいるところ、そこには私は全身をもって・分割されずに・肉体および頭または心をもっておらねばならない。また私があるところのものであるものは、全身をもってであり・分割されずにであり・肉体および頭まては心をもってなのである。
ルードヴゥ匕・アンドレアス・フォイエルバッハ「唯心論と唯物論」