反復は、ギリシア人が「追憶」といったものをあらわす決定的な言葉だからである。ギリシア人は、あらゆる認識は追憶であると教えたが、同じように新しい哲学は、全人生は反復である、と教えるだろう。反復と追憶とは同一の運動である、ただ方向が反対であるというだけである。つまり追憶されるものはすでにあったものであり、それが後方に向かって反復されるのに、ほんとうの反復は前方に向かって追憶される。だから反復は、それができるなら、ひとを幸福にするか、追憶はひつを不幸にする。むろん人間は生ま出たからには、せめてしばらくなりとゆっくり生きてみるとしたもので、生まれ落ちるとすぐに、例えばなにかを忘れたものをしたというような口実を設けて、人生からそっと引き返したりしないものと前提してのことであるが。
人生は反復であり、そして反復こそ人生の美しさであることを理解しないものは、手ずから自分に判決をくだしたも同然で、しょせん免れぬ運命、つまり自滅のほかあるまい。思うに、期待はひとをさしまねく果実ではあるが、腹の足しにはならぬ。追憶はまことに心細い扶持で、これまた腹を満たすには足りない。ところが反復は日々のパンである、それは祝福をもって満腹させてくれる。ひとたび人生を周航してみれば、人生が反復であることを理解するたけの勇気をもてるかどうか、また反復を楽しむ気持ちになれるかどうかが明らかになるだろう。生きることをはじめる前に、まず人生の岸辺を周航しなかったものは、決して生きることにはならないだろう。人生を周航してみたがうんざりしたというひとは、虚弱な体質の持ち主だったのだ。反復を選んだものだけがほんとうに生きるのである。
セーレン・キルケゴール「反復」