2017年4月25日火曜日

戦争の苦しみは平時に直ちに忘却して悪意で外国を判断する。

  戦争本能が必要であったし、それは自然的と呼ばれ得るような残忍な戦争を目的として存在していたのであるから、単に武器を錆びさないためにも、多数の偶発的戦争が行われた。さて、戦争が始る際の民族の熱狂を考えてみよ! もちろん、そこには恐怖に対する防衛的反応、勇気の自動的鼓舞がある。しかし、そのにはまた、あたかも平和とは二つの戦争の間の一休止に過ぎないかのように、自分は危険と冒険の生活のために作らていたのだという感情もある。熱狂はやがて静まる、なぜなら苦しみが甚だしいからである。
 戦争の苦しみは平時にあってはどうして直ちに忘れられてしまうのであろうか、というこは知りたい点である。婦人には分娩の苦痛を忘却させるための特別なメカニズムが存しているーすなわち、あまりに完全な追憶は彼女が再度の分娩を欲するのを妨げるであろう。この種の何等かのメカニズムが特に若い民族にあっては戦争の戦慄の場合にも真実に働いているように見える。自然はこうした方面でなお別の種々な予防策を講じた。自然は、われわれと外国人との間に、無知や偏見や憶断で巧みに織りなされた幕を垂れ下げた。一度も訪れたことのない国を認識しないことは何等驚くべきことではない。しかし、その国の認識を持たないでその国を判断し、しかも殆ど常に悪意で判断するということは、說明を要する事実である。
アンリ・ベルグソン「道徳と宗教の二源泉」