2017年4月4日火曜日

優秀強力な言語は異なる言語を同化吸収し広範囲に同一言語を普及せしめる

 ある言語が広い地域にわたって話される時には、言語の変化は地方によって独自の過程を取りやすい。特に地方間の交流が少ない場合には個別的変化は著しい。かくして知らず識らずの間に言語の分化が行われる。分化による差が次第に大きくなつて、相互の理解を許さざるに至ると、かつては同一の言語の方言であったものももはや同じ言語とは認められず、かくして生じたおのおのの方言はまったく別個の過程を辿るようになる。
 分化に対してはそれに拮抗する力が働いている。共通の文化、政治的中心、文学等は分化に対して大きな力をもって対抗する。また分化によって生じたすべての方言ががおのおの独立の言語となるものではない。また文化的・政治的に優秀強力な言語は逆に多くの異なる言語を同化吸収して広い範囲に同一の言語を普及せしめる。言語にはかくのごとく常に個別化と平均化の力が拮抗して働いていて、言語の無限の分化を防いでいるのである。
 言語分化の代表的な例の一つは言語の所有者の移動によるものである。民族の移動そのものは言語変化の直接の原因ではないが、隔離せられた同一言語の所有者が異る環境において異る環境において異なる言語変化の過程を辿りやすいことは当然であって、両者の差は次第に大となり、ついに相互間の理解を許さなくなり、異なる言語となる。
 例えば往古において印欧語民族はしばしば大移動を行ったが、これが印欧語族分裂の一つの素因となったことはあらそえない。この民族の原住地がどこにあったのか不明であるが、歴史時代の黎明期、すなわち紀元前1000年の頃には彼らはすでに東はインドから西は欧州の西端にまで拡がり、彼らの間に多くの異民族が存在していた事実は、彼らが有史以前にすでに大移動をなし、広い地域に分散していたことを示している。歴史時代においてもケルト族やゲルマン民族の大移動があり、特にゲルマン民族の移動による分散とそれに伴う言語変化と分化の跡は文献的にも辿ることができる。
高津 春繁「比較言語学入門」