2017年6月4日日曜日

残忍な聖書は殺戮をやめず、ヨブ記は不義の源であり、人間は死んで眠る。

 聖書、すなわちこの残忍な書は、殺戮をやめなかった。「ヨブ記」は涸れることのない不義の源である。霊からなるものは涸れることはない。読みた合わせて楽しんでいる。ヨブの友人たちはヨブに諦めるように勧める。彼はそれを自分自身に勧めている。どうやって神と戦うというのか。どうやって神を訴えるというのか。このような霊に対する崇拝、すなわち外に立ち、怒っている、仮借なき、抗えない霊に対する崇拝は、おそらく本質的に偶像崇拝である。なぜなら、フェティシストたちは多くの神がいることでーある神が他の神に勝利するといことでー慰められ希望をもっているから。これらのナイーヴな空想は、人間の置かれている現実の状況をうまく表している。なぜなら、さまざまな事物があることによって、すべてに救いがあることになるから。
 しかし、唯一の神、霊であると同時に力である神。それは観念だけで、圧倒する、殺戮する。ヨブは金持ちであった、しあわせであった。友人たちがいた。突然、彼は貧乏な者となり、病気になり、人から見捨てられている。それはヨブにとって、当然のことのように見えている。この偉大な宇宙、われわれよりもはるかに力の強い宇宙は、ヨブの眼には、決意をもった一人の人間がその小さな指を動かしただけでは粉砕できない、変更できないものであった。たしかに、この世界は「霊」なのだ。この世界のすべて、一物から、ただ一つの意志からなっているのだ。その時、人間は眠っている、死んでいる。

アラン (エミール・オーグスト・シャルティエ)「四季をめぐる51のプロポ」