宗教は集団により極度な危険
諸君のうちには、宗教を単に心の疾病にすぎないように見離す者がいる。そしてかかる人々が良く懷く考えに依ると、この疾病は、個々の者が別個に襲われるだけなら、禍ではあろうが辛抱し易くもあるし、恐らくこれを制御することすらできよう。しかしこの種の不幸な患者の間にあまりにも親しい集団が成立すると、共通な危険が極度に増大し、すべてが失われてしまうと言うのである。
前の場合には、適宜の処置、いわば炎症を抑える食養生とか新鮮な空気によって発作は弱め、例え全快はおぼつかなくともその特有の病素を無害な程度に薄めることができる。
しかし後者の場合は、あらゆる治療の希望を放棄しなければなるまい。即ちもしも他の患者にあまりにも、接近して、禍が個々の患者の治療のもとで助長激化されれば、この禍は一層破壊的なものとなり、極めて危険な徴候を伴って来る。かくして少数の者によって全体の空気が忽ち毒され、極めて健康な身体すらこれに感染し、生命の過程が経過する通路はすべて破壊され、体液は悉く分解し、一様に熱病的精神錯乱に陥り、時代も国民も、こぞって回復困難となろう。
かくして諸君が教会及び宗教の伝達を目的とするあらゆる施設に対して抱く嫌悪は、宗教自体に対する嫌悪よりも一層烈しく、ことに教職者は、かかる施設を支持し且つ特にこれを運営する一員として、諸君にとっては人類中最も悪むべき者である。
だが諸君の中で宗教に関して寛容な見解を有ち、宗教は心の錯乱と言うよりもむしろその特別な現れ、危険な現象と言うよりはむしろ無意味な現象だと考える考える人々も、やはりすべての団体的制度に対しては全然同一な有害だと言う見解を抱いている。彼等の見解によると、かかる制度は必然的に、独特で自由なものを奴隷のように犠牲にし、精神無き機械、空虚な習慣と言う結果を伴う。而もこれは無に等しいか、然らざれば誰にでも等しく充分成し遂げれ得る事物から、信じられない程の結果を以って大成功を収める者がやる人為的な業績だと言うのである。そこでももし私が、諸君をこれに対する正しい見地に立てようとする努力を惜しならば、私が重大だと思うこの問題について諸君に心を披露しても、それは極めて不十分なものに過ぎないであろう。
フリードリヒ・シュライマッヘル「宗教論」