2017年8月31日木曜日

他の人々にはまだ暗黒だけの一角に、新しい日の出の最初の閃光を認めている。

 私がこの著作を書こうとする主な目的は、私が黄昏(トワイライト)の時代と呼んだ、廃朝後の満州朝廷を描くことにあった。それは1912年初のいわゆる共和国の創設の時期から、皇帝溥儀がクリスチャン将軍(馮玉祥)とその同盟者によって紫禁城を追われる1924年11月までの13年に該当する。
 トワイライトという言葉には、黄昏の光だけでなく暁の光の意味もふくまれている。この物語のなかで述べられている黄昏のほの暗い光は、夜の闇にのみこまれてしまったが、それは時の経過とともに再び、太陽の光に輝く新たな日を迎えることとなろう。
 それこそは中国人を敬愛し、尊敬するすべての人々の熱烈な希望であり、固く信じるところなのである。
 われわれの多くはすでに、他の人々がまだ暗黒だけしか認めていない点のまさにその一角に、新しい日の出の最初の閃光を認めている。しかし、以下の各章でわれわれが関わろうとしているのは、黄昏の微光であって、暁の曙光ではない。
レジナルド・フレミング・ジョンストン「紫禁城の黄昏」

2017年8月28日月曜日

言語の音単位は、代え難い独自の場所を有しする組織体または体系をなし、それ以外を排除している。

 言語を形づくる基本たる一つ一つの音の単位は、単語のように無数にあるものではなく、或る一定の時代または時期における或る言語においては或る限られた数しかないのである。すなわち、その言語を用いる人々は、或る一定数の音単位を、それぞれ互いに違った音として言いわけ聞きわけるのであって、言語を口に発する時には、それらの中のどれかを発音するのであり、耳に響いて来た音を言語として聞く時には、それらのうちにどれかに相当するものとして聞くのである。もっとも、感動詞や擬声語の場合には、時として右の一定数以外の音を用いることがあるが、これは、特殊の場合の例外であって、普通の場合は、一定数の音単位以外は言語の音としては用いることなく、外国語を取り入れる場合でも、自国語にないものは自国語にあるものに換えてしまうのが常である。
 かように或る言語を形づくる音単位は、それぞれ一をもって他に代え難い独自の用い場所を有する一定数のものに限られ、しかも、これらは互いにしっかりと組み合って一つの組織体または体系をなし、それ以外のものを排除しているのである。
橋本 進吉 (国語音韻の変遷)「古代国語の音韻に就いて他二編」

2017年8月26日土曜日

近代という一時代の性格は開拓した個々の世界が分離した混乱である。

 まず近代という一時代の性格を説明することから始めなければならない。そしてそれは混乱であると言える。しかしこの混乱は、凡てのものにその秩序を論理的に追求して発達してきたヨオロッパの文明が、それが遂に一つの秩序をなすに至るものであるかないかとは関係なしに追及を続けたために陥った混乱であって、秩序を求める意志は初めから少しも変わらず、ただそうして開拓した個々の世界が各自の方向に従って分離するばかりであることが分かったからであるから、その時に起こった状態は決定的なものだった。それが解ったのが、近代だった。そしてこういうヨオロッパ的な好奇心に限界はなくて、それが何にでも向けられた成果を得たのであって見れば、近代になって、そこには秩序の他は凡てのものがあった。秩序、あるいはそれまであったはずの神はなかったとも言える。
吉田 健一「英国の近代文学」

2017年8月25日金曜日

文学は政治の奴隷になると、政治の宣伝機関になり、政治を批判することはできない。

 文学は独立するようになったのでありますが、その後また道徳、政治とからみあって、ずっと変遷して来ております。もし文学というものが、何かとからみあわなくてはならない、極端に言えば、何かの奴隷にならなければならぬものならば、これは政治の奴隷になるよりも、道徳の奴隷になった方がよいと思います。なぜかと申しますと、政治の奴隷になりますと、文学は政治の奴隷になりますと、文学は政治の宣伝機関になるだけであって、政治を批判することはできません。しかし、道徳の奴隷になりますと、道徳の立場から政治を批判することができます。政治の善い悪いに拘らず、文学がただ政治の宣伝機関になってしますますと、世の中よりも一層の進歩ということは、望まれません。ところが、文学が道徳に隷属しますと、ほかの立場から、即ち道徳の立場から、政治を批判することができますから、こうなれば、社会の進歩に貢献する所が多くなりましょう。
欺波 六郎「中国文学における孤独感」

2017年8月24日木曜日

汝の第一の軍隊は欲望であり、第二の軍隊は嫌悪であり、第三の軍隊は飢渇であり、第四の軍隊は妄執といわれる。

 汝の第一の軍隊は欲望であり、第二の軍隊は嫌悪であり、第三の軍隊は飢渇であり、第四の軍隊は妄執といわれる。汝の第五の軍隊はものうさ、睡眠であり、第呂久の軍隊は恐怖といわれる。汝の第七の軍隊は疑惑であり、汝の第八の軍隊はみせかけと強情と、
 誤って得られた名声と尊敬と名誉と、また自己をほめたたえて他人を軽蔑することである。
 ナムチよ、これらは汝の軍勢である。黒き魔の攻撃陣である。勇者でなければ、かれに打ち勝つことができない。勇者は打ち勝って楽しみを得る。
 このわたしがムンジャ草を取り去るだろうか? 敵に降参してしまうだろうか? この場合、命はどうでもよい。わたしは、敗れて生きながえるよりは、戦って死ぬほうがましだ。
 或る修行者たち・バラモンどもは、この汝の軍隊のうちに埋没してしまって、姿が見えない。そして徳行ある人々の行く道をも知っていない。
スッタニパータ「ブッダのことば」

2017年8月23日水曜日

イエスが、自分の使命は平和をもたらすことではなく、剣をもたらすことである。

 イエスが、自分の使命は平和をもたらすことではなく、剣をもたらすことであるというとき、またイエスが、自分のもたらす激動について、もっとも神聖な地上のえにしは絶ち切らねばならないし、ひとびとは十字架を負うてイエスに従い、自分の生命を無視しなければならない (マタイ 10章 34-42節)ことについて語るとき、そのとき、イエスは終末期の時の迫害のことを考えているのである。神の国を強いよせるものは、大いなる迫害をも招くのである。なぜなら王国とメシアとは、まさにこの大いなる迫害から生まれるからである。
 このゆえにこそ、いたるところのメシアの調和のうちにきわだった和音が認められるのである! イエスは幸いの教えを、憎まれ、責められ、イエスのためにさまざまの悪しきことをいわれるとき、そのひとびとは幸いであると結んでいる。そのときひとびとはまさしく喜びと歓呼の理由をもっているのである。なぜなら、かれらが耐えしのばねばならないそのことのなかに、かれらが神の国に属していることが啓示されるからである。かれらがなおこの世の権力によって苦難を受けているとき、天上ではすでにむくいが準備されているのである (マタイ 5章 11-12節)。
アルベルト・シュヴァイツアー「イエスの生涯 ー メシアと受難の秘密 ー」

2017年8月20日日曜日

君はもう戦う前から逃げている。自分の手の及ばないところは見ない方がいい。

 想像力のはたらきはすごいものだ。君はもう戦う前から逃げている。自分の手の及ばないところは見ない方がいい。仕事のとほうもなさと人間の弱さを考えたなら、人は何もできない。したがって、まず行動し、自分のゆることだけを考えるべきた。あの石工を見たまえ。彼は落ち着いてハンドルをまわしている。大きな石はほんのわずか動くだけだ。それでもやがて家は出来上がるし、子どもたちが階段でとびまわっているようになる。ある時ぼくは、厚さ15cmもある鋼の壁に穴をあけようとしている独りの職人が、そこに座って曲がり柄錐を扱っているところを見て感心した。口笛を吹きなから錐をまわしているのだ。鋼鉄のこまかいくずが雪のように舞っていた。この男の図太さにぼくはまいっていた。
エミール=オーギスト・シャルティ (アラン)「幸福論 (第1部)」

2017年8月17日木曜日

いつの時代にも、大衆の人のよさと無知とが大ていの内乱の原因であったのです。

 軍人。ー 諸君の軍隊はエクスに終結して何をしようというのですか? それでは絶望的ですよ。塹壕にこもっている者は敗れるということは、戦術上の公理です。経験も理論もこの点では一致しています。エクスの城壁は最も出来の悪い原野の防禦陣地にも劣るでしょう。・・・マルセーユの方よ、私の言葉を信じ給え、諸君を反革命に導く少数の不逞の輩のくびきを脱し、諸君の法律で決められた権威をふたたび打ち建て、憲法を受け容れ、代表者たちを自由の身に返してやり給え。そして代表者たちがパリへおも赴いて諸君のためにとりなさんことを。諸君は惑わされているのです、民衆が少数の謀叛人や陰謀家から惑わされるのは今日にはじまったことではない。いつの時代にも、大衆の人のよさと無知とが大ていの内乱の原因であったのです。
オクターヴ・オリブ編「ナポレオン言行録」


2017年8月15日火曜日

すべての目的と功用は、力への意志があるより小さい力を有するものを支配し、自ら一つの機能の意義を後者の上に打刻した標証にすぎない。

 古来人々は、ある事物、ある形式、ある制度の顕著な目的または功用は、またその発生の根拠をも含んでいる、例えば、眼は見るために作られ、手は掴むために作られた、と信じてきたからだ。そして同様に人々は、刑罰もまた罰するために発明されたものだと思っている。しかしすべての目的、すべての功用は、力への意志があるより小さい力を有するものを支配し、そして自ら一つの機能の意義を後者の上に打刻したということの標証にすぎない。従ってある「事物」、ある器官、ある慣習の全歴史も、同様の理由によって、絶えず改新された解釈や修整の継続的な標徴の連鎖でありうるわけであって、その諸多の原因は相互に連関する必要がなく、むしろ時々単に偶然的に継起し後退するだけである。してみればある事物、ある慣習、ある器官の「発展」とは、決して一つの目標に向かう《進歩》ではなく、まして論理的な、そして最短の、最小の力の負担とて達せられる《進歩》では更ない。
フリードリヒ・ニーチェ「道徳の系譜」


2017年8月14日月曜日

美徳が求める名誉と栄光の報酬が、自分の命をかけてそれほど何度も戦ったりする。

 労苦と危険の報酬として美徳が求めるのは、他ならぬこの名誉と栄光という報酬だけだからである。
 もしも名誉と栄光の報酬が取り去られたら、こんなにも取るに足りない、こんなにも短い人生において、われわれがこれほどの労苦に勤しむ意義が何かあるであろうか。言うまでもなく、もし心が後世のことを念頭に置かず、一生が終わるのと同じ時間の枠ですべての思考も終わるのであれば、そんなにも多くの労苦で身を苛んだり、そんなにも多くの心配や寝ずの努力で苦しんだり、自分の命をかけてそれほど何度も戦ったりするようなことがあるであろうか。ところが、優れた人々の心にはみな美徳が宿っており、夜昼となく栄光へと心を駆り立てている、そしてわれわれの名前は命とともに終わるのではなく、後の世までいつまでも残るのだということを訓告してくれるのだ。
マルクス・トゥッリウス・キケロ「キケロー弁論集」


2017年8月11日金曜日

戦争を肯定し、軍隊の存在を許す限り、兵卒すなわち一般民衆は、人権どころか、馬ほどの価値も認められていない。

  将校下士馬兵卒という言葉は、戦争と軍隊とを肯定する限り、全く正しい哲学で、非民主的でも、野蛮でもない。恥ずべき点はないのである。兵隊は葉書一枚の令状で直ちに補充が出来るという意味で、日露戦争ころ下士などが兵隊に向かい、「貴様らは一銭五厘だぞ」(葉書は一銭五厘であったから)とどなり散らしたことがあったというのも、右と同じ理論によるのである。私はこう說明して、同僚の一年志願兵に話したことがあった。
 しかし右の私の說明は、これを裏返せば反軍的にもなる。戦争を肯定し、軍隊の存在を許す限り、兵卒すなわち一般民衆は、人権どころか、馬ほどの価値も認められていないぞと、それは教えるものだからである。私は太平洋戦争中、『中部日本新聞』から執筆を依頼された際、実はその含みで「将校下士馬兵卒」と題する短い論文を書いてやったことがあるが、それはさすがに大本営報道部から「不許可」という大きな判を押されて返された。またそれには赤インキで「軍として不可の意見」とも記してあった。検閲を受けずに、新聞に掲載してくれればよかったと思うが、しかし新聞社では私の論文を見て危険を感じたのであろう。報道部に事前検閲を求めて、不許可となったのである。
石橋 湛山「湛山回想」

2017年8月9日水曜日

直ちに投石や武器に訴えるが、自己の生活のなかに他人が進入することは許している。

 かつて光り輝いた天才のすべては、この一つの主題について意見を同じくしている。にもかかわらず彼らでも、このような人の心の闇には、どんなに驚いても驚き足りないであろう。どんな人でも自分の地所をとられて黙っている者はいないし、また領地の境界について、たとえ小さなもめ事が生じても直ちに投石や武器に訴える。だが、自己の生活のなかに他人が進入することは許している。いや、それどころか、今に自分の生活を乗っ取るような者でさえも引き入れる。自分の銭を分けてやりたがる者は見当たらないが、生活となると誰も彼もが、なんと多くの人々に分け与えていることか。財産を守ることがけちであっても、時間を投げ捨てる段になると貪欲であることが唯一の美徳である場合なのに、たちまちにして、最大の浪費家と変わる。

ルキウス・アンナエウス・セネカ「人生の短さについて」

2017年8月6日日曜日

人に知識なければ国を治ること能わず、国を乱したるにも規則なし、皆無知文盲の致す所なり。

 天下は太平ならざるも、生の一身は太平無事なり。かねて愚論申し上げ候通り、人に知識なければもとより国を治ること能わず。甚しきに至りては国を乱したるにも規則なし。皆無知文盲の致す所なり。今人の知識を育てんとするには、学校を設けて人を教えるに若くものなし。依て小生義は当春より新銭座に屋敷を調え、小学校を開き、日夜生徒ともに勉強致し居り候。この塾小なりといえども、開成所を除くときは江戸第一等なり。然ればすなわち日本第一等乎。校の大小美徳をもって論じれば、あえて人に誇るべきにあらざれども、小はすなわち小にして規則正しく、普請の粗末なるはすなわち粗末にして掃除行き届けり。僕は学校の先生にあらず、生徒は僕の門人にあらず。これを総称して一社中となづけ、僕は社頭の職掌相努勤め、読書は勿論、眠食の世話、塵芥の始末まで周旋、その会社の社中にも各々その職分あり。

福沢諭吉「福沢諭吉の手紙」

2017年8月5日土曜日

あちこちの方角に投げ捨てられまち散らし鳩色のような白い骨を見てはこの世に何の快があろうか?

 諸のつくられた事物は実に無常である。生じ滅びる性質のものである。それらは生じては滅びるからである。それらの静まるのが、安楽である。何の喜びがあろうか。何の歓びがあろうか? ー 世間はこのように燃え立っているのに。汝らは暗黒に陥っていて、照明を求めようとしない。あちこちの方角に投げ捨てられまち散らされたこの鳩色のような白い骨を見ては、この世に何の快があろうか? 夜の最初のあいだ母胎に入って住みつく人は、安らかにとどまること無く、迷いのうちに遷っていくー去って、もはや還って来ない。朝には多くの人々を見かけるが、夕べには或る人々のすがたが見られない。夕べには多くの人々を見かけるが、朝には或る人々のすがたが見られない。
 「私は若い」と思っていても、死すべきはずの人間は、誰が自分の生命をあてにしていてよいだろうか? 若い人々でも死んで行くのだ。ー男でも女でも、次から次へとー。或る者どもは母胎の仲で滅んでしまう。或る者どもは産婦の家で死んでしまう。また或る者どもは這いまわっているうちに、或る者どもは駆け廻っているうちに死んでしまう。老いた人々も、若い人々も、その中間の人々も、順次に去って行く。ー熟した果実が枝から落ちていくように。熟した果実がいつも落ちるおそれがあるように、生れた人はいつでも死ぬおそれがある。
第1章 無常 (関与のことば)「ブッダの真理のことば、関与のことば」


2017年8月4日金曜日

イスラエルの子らの中のすべての胎を開くものは人であれ、家畜であれ、ヤㇵウェのものである

 ヤウェがモーゼに語って言われた。「すべの首子を聖めてわたしに献げよ。イスラエルの子らの中のすべての胎を開くものは人であれ、家畜であれ、わたしのものである」。
 モーゼが民に言った。「君たちがエジプトの奴隷の家から出たこの日を懊えよ、何故ならウェーは強い手をもって君たちを引き出されたのだから。種を入れたものを食べてはならない。アビブの月の今日、君たちは出る。ヤウェが君の先祖たちに与えようと誓われた乳ち蜜の流れる地に君を入れられる時、君はこの月に祝うべきである。七日の間は種入れぬパンを食べなければならない。七日目はヤウェのための祭りである。七日の間種入れぬパンを食べ、すべての君の領域に種を入れたものが見られるようにせねばならない。パン種が見られないようにせねばならない。その日君は君の子に次のように言って告げなければならない。『これはわたしがエジプトから出た時にヤウェがわたしにされたことのためである。ヤウェの律法がお前の口にあるように、それがお前の手にある徴しとなり、お前の目の覚えとなるように』。何故ならヤウェが君をエジプトから引き出されたからである。それで君はこの規定を年毎に定められた時に守るべきである。ヤウェーが君と君の先祖たちに誓われたように、カナン人の地に君を入れ、それを君に与えられる時、君は胎を開くすべてのものをヤウェに奉らねばならない。
十八 首子の犠牲その他「旧約聖書 出エジプト記」

2017年8月2日水曜日

人間の霊魂はどうしてもことごとく不死でなければならない。

第72章 人間の霊魂はことごとく不死であること
 しかしもし人間の霊魂が可死的であるとすれば、最高の本質を愛する霊魂が永遠に至福であることも、それを蔑む霊魂が不幸であることも、必然ではなくなるであろう。それ故に。人間の霊魂は、それを愛するために創造されたそのものを、愛するにせよ、蔑むにせよ、どうしても不死でなければならない。けれども、例えば子供の霊魂がそうであると見られるように、もし、それを愛しもしなければ蔑みもしないと判断されるような、ある理性的な霊魂も存在するとするならば、そういう霊魂についてはわれわれは如何なる見解をもつべきであろうか。そういう霊魂は可死的であろうか。疑う余地がない。だから、ある霊魂の不死であることが明白である以上、すべての人間の霊魂が不死であることも、必然でなければならない。
聖アンセルムス「モノロギオン」