2017年6月26日月曜日

第一次世界大戦の間は、新聞や雑誌はとかく現在の恐ろしい不安から目を転じた。

 第一次世界大戦の間、新聞や雑誌はとかく現在の恐しい不安から目を転じて、後に平和が回復した上で何が行われるかを考えたものである。特に文学の将来が問題となっていた。ある日私のところへ人が来てそれをどう考えるかと尋ねた。私も少し困って、そういう事は考えていないと言明した。『せめて何か可能な方向をお考えになりませんか。それは誰にも細かいところまでは予見できないとは認めても、哲学者である先生には全体の観念というものはおありでしょう。例えば今後の大きな劇作がどうお考えになります。』と言った。『私に今後の大きな劇作がどんな物だかわかれば、私が書きますよ。』と言った時の相手の驚きは、いつまでも忘れないであろう。私には相手が、その時からちゃんと将来の作品が可能なものを秘めたなんだかわからない戸棚の中に仕舞ってあるように考えていることがはっきりとわかった。
 そこで私はすでに古くから持っている哲学との交渉を考えてみれば、その哲学から戸棚の鍵を手に入れているはずだと思われたのである。『しかしあなたの言う作品は可能ではない。』と言った。ー『そうは仰有つてもその作品が後で出て来るものですから可能に決まっています。』ー『いや可能ではありません。せいぜいその作品が可能だったということになるだろうと認めるだけです。』ー『なに簡単なことですよ。才能もしくは天才のある人が、突然出て来て一つの作品を創造する。そうするとその作品が事象的になり、正にそれによってそれからは、後で逆に眺めると、又は後から逆に作用するものとして可能になります。しかしその人が現れて来なかったとすれば可能になりませんし、可能だったことにもなりません。それで私はその作品が今日可能だったことになるでしょうが、まだ可能ではないというのです。』
 アンリ・ベルクソン「可能性と事象」『哲学的直感ー思想と動くもの』