2017年7月18日火曜日

歴史は躍如たる画像を構成するために知識を使用することである。

 もしも歴史がただたんに過去の記録と考えるならば、初等教育の課程において歴史がなんらか大きな役割を演ずべきであると主張する、いかなる論拠もみいだすことは困難であろう。過去は過去である。死者には安らかにみずからを葬らせておけばいいのである。現在はあまりにも多くの緊切な要求に充たされており、未来の敷居をまたごうとするあまりにも多くの要請が存在しているので、永久に過ぎ去ってしましたものに子どもを没頭させておくわけにはゆかない。
 もし歴史教授の目的が、子どもをして社会生活の価値を評価し、人間相互間の有効な協同を助ける諸力、およびこれをさまたげる諸力を想像をとおして看取し、社会生活を助長するところの、またはこれを阻止するところの事物の種々なる性質を理解することを得させることであるならば、歴史を提示するばあいの最も本質的なことがらはその提示を運動的・力動的たらしめることである。歴史は、結果或いは影響の集積、すなわち生起したことのたんなる叙述としてではなくて、力にあふれた、活動しつつあるものとして提示されねばならなぬ。動機ーすなわち原動力ーが明らかにされねばならぬ。歴史を学習するということは、知識を蒐集するということではなくて、いかに、そしてなぜ人間はかくかくのことを為したか、いかに、そしてなぜかれらはその成功をかちえたか、或いはその失敗をまねくにいたったかについての躍如たる画像を構成するために知識を使用するということである。
ジョン・デューイ「学校と社会」