2017年2月27日月曜日

戦争と平和は絶えず刺激なければ心と記憶は薄れてしまう

 卓越した能力をみった人びとの立派な行いが妬みによって傷つけられないように、また、不滅の価値をもったその名が忘却にさらされないように、努めている人びとがいます。かれらの企ては、ひとなみすぐれた、教養高きひとにふさわしいものです。卓越した人びとのイメージを後世に伝えるものに、大理石に刻んだり青銅で鋳造したりした小像があります。足を踏まえて立ち、あるいは、馬にまたがった鋳像があります。ある詩人がうたっているように、星にもとどかんばかりの巨額の富を投じた石柱やピラミッドがあります。最後に、後世の人びとが永遠に語りつぐであろうひとの名を冠した都市があります。じっさい、人の心の常として、物であらわしたイメージによって絶えず刺激されなければ、どんな記憶もたちまちうすれてしまうものです。
 しかし、大理石や金属よりいっそう確実で永続性を求めるひとは、詩神の保護の下に、つまり、不朽の文学作品に、偉大な人びとの名声を託します。ところで、人間の英知はこの地上に満足しきって、あえてそれを超えようとはしなかったと、どうしていえましょうか? それどころか、英知は人工的な記念物が暴力や自然の怒りや歳月によって、ついには破壊されることを十分に理解し見抜きます。そして、貪欲な時や嫉妬深い歳月をどうすることもできない、もっと滅びにくい記念物を考えだしました。こうして、天空に目をうつし、永遠に記憶されるきわめて明るい星の天球に、偉大な人びとの名をつけました。その名は、輝かしい崇高な行いによって、その星とともに永遠の生命をうけるに値する、とみなされたからです。こうすることによって、星がその名でよばれるようになったユピテル(木星)、マルス(火星)、メルクリウス(水星)、ヘルクレス(星座名)、その他の英雄たちの名声は、その星が輝きを失うまでは、決してうすれることはないでしょう。しかし、人間の英知のこの創意は、もっと高貴な讃えるべき行為であるのに数世紀のあいだ廃れていました。ところがいまや古代の英雄たちは栄光の座につき、ようやくその権利を回復するに至っています。
ガレリオ・ガルレイ「星界の報告」


2017年2月24日金曜日

歴史は諸々の武器や道具の過程の跡をたどる

  歴史が力動的なもの、運動的なものと考えられる場合には、その経済的・産業的側面が協調される。経済的・産業的側面とは、人類が不断にとりくんでいる問題、すなわちいかに生活すべきか、自然をして人間生活の豊富化に貢献せしめるようにするには自然をどのように駆使し利用すべきかという問題をいいあらわす専門的な用語にほかならない。文明における諸々の偉大な進歩は、人間をその不安な自然への服従から引き上げ、いかにして人間が自然の力を人間自身の目的に協力せしめることができるかを人間にしめしたところの知性の発現をとおしてもたらされたものである。子どもが現在そのなかに生活している社会的な世界はあまりにも豊富であり潤沢であるから、それがどれだけ値打ちのあるものか、その背後にどれだけの努力と思考がよこたわっているものかを看取することは容易ではない。人類はいまやお膳立てをされた巨大な支度をもっている。子どもはこれらのすでに出来上がっている資産を流動的な形に置きかえるようにみちびかれることができる。子どもは、受け継がれた資本をもたずに、道具をもたずに、加工された材料をもたずに、自然とじかに向き合った人間を直視するように導かれることができる。
 かくして一歩一歩、子どもは人間が自己の状態の諸々の必要を認識し、これを使用することによって、それらの必要に応じることができるようになる諸々の必要を認識し、これを使用することによって、それらの必要に応じることができるようになる諸々の武器や道具を考えだした過程の跡をたどることができる。そして、いかにこれらの新しい資力が新しい発展の天地をひらき、新しい諸々の問題を生み出したかを学ぶことができる。人類の産業史は唯物論的な、すなわちたんに功利主義的なことがらではない。それは知性の問題である。産業史の記録は、いかにして人間が思考することを学び、思考して或る結果を生じせしめることを学び、生活そのものが違ったものになるようになねように生活の状態を変改することを学んだかの記録である。それはまた倫理的な記録でもある。すなわち人類がその諸々の目的に仕えるために忍耐づよくつくりだしたところの諸状態の説明書でもある。
ジョン・デューイ「学校と社会」

2017年2月22日水曜日

激しい飢餓は狂暴の嵐の中で、力の弱い者が強いものの餌食になる

  自然と真理とを研究するだけでは賢人には不足である。考えることを欲しまたできる少数の人のために、進んでこれを述べる義務がある。けだし、その他の人々、自ら進んで偏見の奴隷となっている徒輩に至っては、蛙に羽で飛ぶことができないと同様、かれらが真理に達することは不可能の業だからである。
 もっとも賢明な連中は、魂はただ信仰の光によってのみ、自らを識ることができる。しかも道理のわかった人間という資格で、精神なる言葉によって聖書がなにを意味しようとしたかをしらべてみる権利は、これを留保しうると信じたのである。聖書は、人間の魂を語る際に、この言葉を用いている。さらに神学者たちは他のすべての点に関して相互の間に果たしてこれ以上の一致を見せているであろうか。
 神なるものがあるとすれば、それは自然界の創造者であり、同じく天啓の創造者である。神は一方を說明するために、他方をわれわれに与え、さらに両方を調和させるために理性を与えたのである。生物体の中から汲みとりうる知識を信用しないことは、自然と天啓とを、相互に衝突しあう二つの相反したものとして眺めることであり、従って、神はその数多くの創造者において矛盾し、われわれを欺くものとなり、途方もないことを、大胆にも指示することになる。
 人間はきわめて複雑な機械である。一挙にしてあきらかなる観念を持つことは不可能であり、従ってこれを定義することは不可能である。獰猛性は他の原因からもきているが、教育の力を借りなければ無力にすることはできない。この獰猛性は魂の中に傲慢、憎悪、他国民への蔑視、不柔順、およびその他の感情をつくりだすが、これらのものが性格を低劣にさせるのである。激しい飢餓はじつに極端なところまでわれわれを押しやるではないか! 自分が生命を貰った生命、ないし自分が生命を与えた生命に対してさえ見さかいがつかなくなってしまい、牙をむき出してこれを引き裂き、恐ろしい饗宴を始める。人を無我夢中にするこの狂暴の嵐の中で、力の弱いものが強いものの餌食になる。
ド・ラ・メトリ著「人間機械論」

2017年2月20日月曜日

名誉欲、復讐欲、支配欲は決して完全には満たされない激情である

 ある欲望が、その対象の表象に先立って、発生するという主観的可能性が性癖である。ー欲求能力が未だ知られていないこの対象を占有するように内的に強いられることが本能である。ー主観に対して規則や習慣として役立つ感性的欲望は傾向性と称される。ーある種の選択に対して、それをすべての傾向性の総和と比較しようとする理性を妨げるところの傾向性が激情である。

 激情はきわめて冷静な反省とも結合せられて、したがって情緒の如く無思慮である必要がなく、それ故にまた狂暴でもなければ一時的なものでもなく、むしろ深く腰をすえ、理屈とすら共存しうるものであるから、自由を毀傷することが最も大であり、情緒が酩酊であるとすれば激情が疾病であることは容易に洞察できる。しかもこの疾病に向かってはいかなる治療薬も効を奏せず、したがってあらゆる一時的な精神動揺と情緒よりもはるかに悪質なものである。後者ならば少なくとも改善の決意を起させるが、激情はそのやうなものではなく、改善をすら寄せ付けない惑乱である。

 我々は激情を呼ぶのに欲という語をもってするー名誉欲、復讐欲、支配欲等々ー。したがって激情的な惚れ込みは、相手方が飽くまで拒絶の態度に執着するかぎり激情の一つに数えられる。それは、客体に関してあくまで固執する原理を含むからである。激情はいつでも、傾向性から主観に指令された目的に従って行動しようとする。主観の格率を前提している。故に激情はつねに主観の理性と結合されており、単なる動物に激情を認めえないのは、純粋な理性存在者におけると同様である。名誉欲、復讐欲等々は、決して完全には満たされないものであるから、まさしくそのため姑息薬しかない痼疾として、激情に数えられるのである。

イマヌエル・カント「人間学」

2017年2月18日土曜日

戦争の野蛮な行いを安らかな平和をもって助ける

  女神よ、永遠の魅力を、私の詩に与えたまえ。その間中、戦争の野蛮な行いを、海といわず、あらゆる陸といわず、ことごとく眠らせ、休止させたまえ。死すべき人類を、安らかな平和を以て、助けることができるのは、あなた独りだけなのだから。というのは、戦争という蛮行を支配するのは、戦に強き武神であり(軍神の別称)、しかも武神は、あなたに対する恋の永遠の深傷にうちひしがれて、ますますあなたの膝の上に、身を投げ出すのだから。それのみかなお、滑らかな首を横たえて、見上げつつ、口を開いて、女神よ、あなたを見つめつつ飢えた眼に恋の思いをむさぼらしてやり、そのあお向きになった彼の息は、あなたの口の左右するままにまかされているのだから。女神よ、あなたの神聖な体の上に横たわる武神に、上から抱いて、あなたの口から、甘い言葉を注ぎかけ、世にあまねく知れわたる女神よ、ローマ人のために、安らかな平和の来るように乞いたまえ。祖国がこのように不安定であっては(第一期三頭政治直前の不安定な社会情勢をさす)。心を平らかにして、充分に、務めをはたすことは、私にはできないし、且つまた、メンミウス家の立派な子孫にとっても、このような時局に際しては、国家の福祉のために、政務から遠ざかっていないのだから。

ティトゥス・ルクレーティウス・カルス

「物の本質について」


2017年2月16日木曜日

自らを慰め微かながら時代を憂い嘆いた市民の声

二・二六事変(1936年)
 重大なこと起れるにかかはりのなきが如く人ら往きかへるも
スペイン動乱(1936年)
 ひとつの国の民らたがひに敵となり戦はねばならぬものありといはむか
事変(1937年)
  いつの世になりたらば戦のやむならむ尽くることなきたたかひを思ふ
欧州大戦序曲(1939年)
  陥落を伝へしワルソウに女子供もあわれ銃をとり死守しいるとぞ
ノモンハン高原(1936年)
  コロンバイルに戦ひ死にし同胞の一万八千あまりかなしも
欧州大戦図(1940年)
  ほしいままなる人類の惨虐地の上にのこしてこの年五月は去りぬ
独蘇開戦(1941年)
  戦は童ら地に線描きて国取りするが如く思はゆる瞬間があり
戦う世界(1943年)
  ドイツ軍神にしあらねばスターリングラードに重囲のなかに陥りにけり
イタリア崩壊(1943年)
  いまの現にわが生きわりてまさに見るファシズム・イタリア崩壊の日
欧州上陸作戦(1944年)
  この月のかけにつつまた満ち照らむまでに戦争のやむとしいはば
焦土(1945年)
  大爆撃に一夜のうちに焼け果てし市路に立ちて声さへ出でず
暁光(1945年)
  真夜ふかく極まるときし東の暁の光のただよふにかあせし

南原 繁「歌集『形相』」







2017年2月14日火曜日

軍神は盲目により、人殺し、闘争心、敵愾心、対抗意識となる

 エロス(愛)とは対局にある軍神アレスだが、銅板に画かれているのを見たまえ。人間がこの神をいかに崇めまつっているかがわかる。しかし同時に、そのアレスは何と悪しざまに言われていることか。ソポクレスが「女たちよ、アレスは盲目ゆえに、ただやみくもに」猪にも似た顔をして、あらゆる禍をかきまわす。」といっているかと思えば、ホメロスはアレスの事を「血汐に染んだ」とか呼んでいるし、ストア派のクリュシュボスが、この神の名の由来を說明した文句などは、そのままこの神に対する非難誹謗だね。
 「アレスとは「人殺し」ということだと言い、つまりアレスというのは、吾々の内部にひそむ闘争心、論争好き、激しやすさ、そういうものを指す呼び名だと考える人々に道を開いたというわけだ。このほかにも、アプロディナとは欲望のことだと言う人もあるだろうし、ヘルメスは言論、ミュースは技芸で、アテナは智慧だという人もあるだろう。もしこんな調子で、すべての神々を片はしから、人間の感情や能力や徳性の異名だということにしてしまったら、たぶん無視論の深淵に吸い込まれていくのを見る思いがするだろう。」
 ペンプティディスが言った。「そのとおりだ。だが神々とは人間のいろいろな感情のことだとするのも、また反対に、感情が神だと考えるのも、どちらも不敬のそしりを免れない点では同じだな」父が言った。「するとどうなのかね。君はアレスは神だと信じるのか、それとも我々の感情のことだと思っているのか。」ペンプティディスが、「アレスは神で、我々の心の中の激しさや勇気を司っているのだ」と答えると、父が一段と声を張り上げて、「というとつまりなんだね、君の考えだと、闘争心や敵愾心、対抗意識などの神はあるが、愛情や協調の精神、和の精神などの神はないことになるのかな。人間が殺したり殺されたりする、剣を振い矢を放ち、あるいは城壁に押し寄せ、あるいは戦利品を奪い去る、そういう場合には、荒ぶる神だか軍神だかいうのがいて、それを見そなわし、そして判定を下すが、結婚を目指す情熱や、心を一つにし、行動をともにしたいと願う愛については、その証人となってください神もなければ、指導し案内し助けてください神様もないというわけか。」
プルタルコス「愛をめぐる対話」


2017年2月11日土曜日

血も情意も烈しい混乱が抽象的な天が具体的な仏に変化

 百済観音の像の美しさは、それだけでは明らかにならない。漢の様式の特質を中から動かして仏教美術の創作に趣かせたものは、漢人固有の情熱でも思想でもなかった。外蛮の盛んな侵入によって、血も情意も烈しい混乱に陥っていた当時の漢人は、和らぎと優しみとに対する心からの憧憬の上に、さらにかつて知らなかった新しい心情のひらめきを感じはじめていた。それは地の下からおもむろに萌え出て来る春の予感に似かよったものであった。かくしてインドや西域の文化は、ようやく漢人に咀嚼せられ始めたのである。異国情調を慕う心もそれに伴って起こった。無限の慈悲をもって衆生を抱擁する異国の神は、ついにひそやかに彼らの胸の奥に忍び込んだのであった。
 抽象的な「天」が、具体的な「仏」に変化するるその驚嘆をわれわれは百済観音から甘受するのである。人体の美しさ、慈悲の心の貴さ、ーそれを嬰児のごとく新鮮な感動によって迎えられた過渡期の人々は、人の姿における超人的存在の表現をようやく理解し得るに至った。神秘的なものをかくおのれに近いものとして感ずることは、ーしかもそれを目でもって見得るということは、ー彼らにとって、世界の光景が一変するほどの出来事であった。彼らは新しい目で人体をながめ、新しい心で人情を感じた。そこに測り難い深さが見いだされた。そこに浄土の象徴があった。そうしてその感動の結晶として、漢の様式をもってする仏像が作り出されたのである。
 百済観音がシナ人の作だというのではない、百済観音を形成している様式の意義を考えているのである。シナではそれはいくつかの様式のうちの一つであった。しかし日本へくるとこの様式がほとんど決定的な力を持っている。それほど日本人はこの様式の背後にある体験に共鳴したのである。
和辻 哲郎「古寺巡礼」

2017年2月10日金曜日

歴史的戦争は両国民性の特有の相違により異なる

  もちろん歴史は種々なる原因の相働く跡をのぼるものと考えることができるであう。しかしかくその跡をのぼるというのは、単にのぼる為にのぼるのではなくして、これによってその事件の個性を現すためではなかろうか。例えば、ここに二人の人物があって、その一人は強き性格を備え常に周囲を支配し、他の一人は弱気性格を備え、常に周囲から支配されるるとせよ。歴史家はこれらの人の事蹟を単にいわゆる強き原因に従って無意義に羅列するであろうか。強き人は強くして他を支配する所に、弱き人は弱くして他から支配せられる所に、各人特有の個性を表そうとするのではなかろうか。
 例えば、ある歴史家がフランス革命の事蹟及び原因をあきらかにしたとせよ。ドイツにおいて同一の事情が及び原因があったとしても、ドイツにおいてはフランスの如き性質の革命は起こらなかったかも知れない。これは両国民性の相違によると見るべきであろう。同一の原因であっても、ある国民にはある事件の原因となるが、ある国民においてはその原因とならぬということとなる。すなわち歴史的効力というのも国民性によって異なってくるといわねばなるまい。
 歴史的効力によってある事件の原因をあきらかにするということと、国民性の理解という如きことと相離すことはできないであろう。歴史において原因結果を明らかにするのは、自然科学においてのように因果関係を明らかにするのではない。因果関係を明らかにうることによって個性を明らかにするのである。ことごとく歴史においては個性が明らかにすることによって個性を明らかにするといえば、そこに論理の循環があると考える人も人もあろう。もちろん歴史家もある一事件の因果関係を明らかにしない前に、その個性を明らかにできるはずはない。ただその因果関係を明らかにするのは、因果関係のためにこれを明らかにするのではなく、個性を明らかにする為であるというのである。
西田 幾太郎「思索と体験」

2017年2月8日水曜日

世界宗教は世界大戦の軍隊の心術と前哨

 深い真理は尊大な態度で立ち現れない。いわんや重苦しい屈辱がわれわれ海外で福音を宣べ伝えているもの一同を待ち受けているにおいてをやである。『どこにいったい汝らの倫理的宗教はあるのか』とかれらはわれわれに問う、それが原生林の原始人であっても或いは極東の教養人であっても。キリスト教が愛の宗教として果たしてきたものは、それがキリスト教国民を平和愛好心に教育するに十分なだけ強くなかったことにより、またそれが(第一次)大戦当時なおあのようなはなはだ世俗的にして憎むべき心術と結託した、ということ、しかり今日もなおまだそれらから絶縁していないということによって、払拭されたものと考えられる。身の毛のよだつ仕方でそれはイエスの精神に不忠実となった。われわれが海外で福音を宣べ伝えるばあい、この悲しむべき事実については何も否認しないよう又何も体裁を飾らないようにしよう。われわれはあまりにたやすくイエスの精神をもっていると思い込んでいたために、それを深く堕落したのである。いまやイエスの精神そのものをもとめるより真剣な闘いがはじまるべきである。
 今日海外で福音を宣べ伝えていて、われわれは、ひとたび(第一次世界大戦の)敗戦を経験したがようやくもういちど強くならなければならない一つの軍隊の前哨なのである。しかしわれわれは勇敢な前哨でありたい。人間のいかなる誤りもまたいかなる不忠実も、イエスの福音からそれがそのなかに担っているいる真理を取り去ることはできない。そしてただ真の「世界とは異なる存在」においてあるわれわれ自身に、生き生きとした倫理的の神によって捉えられた状態の幾分かが啓示されるとき、そのときイエスの真理はわれわれから発するのである。
アルベルト・シュヴァイツェル「キリスト教と世界宗教」

2017年2月6日月曜日

強力な軍事的支配の社会組織は他の総ての有能支配を塞ぐ

 ナポレオンは、社会の秩序の救う「名刀」の役割をになってあらわれ、それによって彼以外のすべての将軍たちをこの役割からとおざけたが、その将軍たちのあるものは、ナポレオンとおなじか、あるいはほとんどおなじようにその役割を果たしていたかもしれないのだ。ひとたび、強力な軍事的支配者をもとめる社会の欲求がみたされると、社会組織は、その他のすべての有能な軍人が支配者にのぼるみちをふさいでしまった。社会組織の力は、同類の他の有能な人間がでてくるのには都合のわるい力となった。このおかげで、われわれがさきにのべたような錯覚が生れるのには都合ののわるい力となった。このおかげで、われわれがさきにのべたような錯覚が生れるのである。
 ナポレオンの個人的な力は、きわめて大げさなかたちでわれわれのまえにあらわれる。というのは、彼の個人的な力をまえにおしだし、それを支えていたあらゆる社会勢力を、われわれは彼の個人的な力のせいにしてしまうからである。ナポレオンの個人的な力は、われわれになにかきわめて特別なもののようにおもわれる。というのは、それに似たさまざまの力は可能性から現実性に変らなかったからである。そこで、もしもナポレオンがいなっかたらどうだっただろうか、ときかれると、われわれの想像はこんがらがって、彼の力や影響のもととなっていた社会運動はすべて、彼がいなかったらまったくおこらなかっただろう、とおもわれるのである。
 それにくらべれば、人類の知的発展の歴史のなかで、ある個人の成功が他のものの成功を妨げることはまずめったにない。だが、このばあいでも、われわれはまえにいった錯覚からまぬがれない。社会のある一定の状態が、その社会の精神的な面の代表者に一定の問題を提起すると、その問題がうまく解決されるまで、すぐれた知能の持主の注意はそれにひきつけられる。だが、いったんそれがうまく解決されると、彼らの注意はべつの対象にむけられる。

ゲオルギー・ヴァレンチヴィチ・プレハーノフ

「歴史における個人の役割」

2017年2月4日土曜日

多数決原理は平等ではなく自由の理念から導き出される

 自由の理念から、多数決原理が導き出されるべきものであってー一般に考へられるのを常とするようにー平等の理念からではない。しかしこの平等である、ということは、単なる想像であって、人間の意思や、人間の人格を、有効に測量し、計算するということが出来ることを意味しない。多数の票が少数の票より、大なる全重量を持っている、という理由を以て、多数決原理を是認することは、不可能であろう。
 ある者が他の者に少しも値しないという、純粋に否定的な推定からは、多数の意思が妥当せねばならぬということを、未だ積極的に推論することが出来るものではない。若し多数決原理を、平等の理念だけから導き出そうと試みるならば、それは独裁主義の立場から非難するように、事実あの純機械的な、しかのみならず無意味な性質を持つことになる。
 多数者が少数者より強い、ということは、辛うじて構成せられた経験上の表現にすぎないであろう。そして「力は正義に勝る」という格言は、それ自らを法文に高める限りにおいてのみ、克服せられるであろう。ただーたとひ凡てではなくともー出来るだけ多数の人間が自由である、即ち出来るだけ少数の人間が、彼等の意思と共に、社会秩序の普遍的意思と矛盾に陥らねばならなぬ、という考えだけが、多数決原理への、合理的途上に導くものである。
 その際、平等が、当然にデモクラシーの基本仮定として、前提せられるということは、この者が少しもかの者に値しないから、直ちにこの者又はかの者が、自由でなければならなぬ、というのではなく、出来るだけ多数の者が、自由でなければならぬ、という点に表明される。そこで、国家意思の変更を来すために、より少ない個人意思と合致することが、必要となればなるほど、個人意思と国家意思との一致符号は、ますます容易になる。絶対的多数は、ここに事実上、最高の限界を呈示する。国家意思が、その成立の瞬間において、より多くの個人意思と一致するよりは矛盾する、という可能性は、より少なくなるであろうし、少数が国家意思をーその変更を妨げることによってー多数と反対して決定することが出来る、という可能性は、ますます多くなるであろう。
ハンス・ケルゼン「デモクラシーの本質と価値」


2017年2月2日木曜日

戦争は世界無上の禍なれども、西洋諸国、常に戦争を事とせり

   西洋諸国を文明というといえども、正しく今の世界にありてこの名を下だすべきのみ。細かににこれを論ずれば足らざるもの甚だ多し。戦争は世界無上の禍なれども、西洋諸国、常に戦争を事とせり。盗賊殺人は人間の一大悪事なれども、西洋諸国にて物を盗むあり人を殺す者あり。国内に党与を結て権を争う者あり、権を失うて不平を唱る者あり。いわんやその外国交際の法の如きは、権謀術数至らざる所なしというも可なり。ただ一般にこれを見渡して善盛に趣くの勢いあるのみにて、決して今の有様を見て直ちにこれを至善というべからず。今後数千百年にして、世界人民の智徳大いに進み、太平安楽の極度に至ることあれば、今の西洋諸国の有様を見て、愍然たる野蛮の歎を為すこともあるべし。これに由りてこれを観れば、文明は限なきものにて、今の西洋諸国を以て満足すべきにあらざるなり。
 西洋諸国の文明は以って満足するに足らず。然らば則ちこれを捨てて採らざるか。これを採らざるときは何れの地位に居て安んずるか。半開も安んずべき地位にあらず、いわんや野蛮の地位に於いてや。この二つの地位を棄れば、別にまた帰する所を求めざるべからず。今より数千百年の後を期して彼の太平安楽の極度を待たんとするも、ただこれ人の想像のみ。かつ文明は死物にあらず、動て進むものなり。動て進むものは必ず順序階級を経ざるべからず。則ち野蛮は半開に進み、半開は文明に進み、その文明も今正に進歩の時なり。
福沢 諭吉「文明論之概略」