2017年5月27日土曜日

戦争の義務は、個人の意志ではなく道徳的法則に対する尊敬の念にて為す行為の必然性である。

  義務とは道徳的法則に対する尊敬の念にもとづいて為すところの行為の必然性である。私の意図する行為の結果であるところの対象には、なるほど傾向をもつことはできるが、しかしとうていこれに尊敬を致すことはできない、かかる対象は意志から生じた結果にすぎないのであって、意志そのもののはたらきではないからである。同様に私は、傾向性一般をーそれが私の傾向であると、他人の傾向を問わず、ー尊敬することはできない、もしそれが私の傾向性であれば、ただこれを傾向として認めるのが精々だし、また他人の傾向であれば、それが私自身の利益に役立つ限り、時にこれを喜ぶことさえあるだろう。
 それだから結果としてではなく、あくまで根拠として私の意志と固く連結しているところのもの、私の傾向性に奉仕するのではなくてこれに打ち克つところのもの、少なくとも対象を選択する際の目算から傾向性を完全に排除するところのもの、すなわちーまったく他をまつところのない法則自体だけが尊敬の対象であり得るし、また命令となり得るのである。そこで義務にもとづく行為は、傾向性の影響を、また傾向と共に意志のいかなる対象をも、すべて排除すべきであるとすれば、その場合に意志を規定するものとして意志に残されているところのものは、客観的には法則だけであり、また主観的にこの実践的法則に対する純粋な尊敬の感情だけである。従ってまたいっさいの傾向を廃してかかる法則に服従するところの格律である。

イマニュエル・カント「道徳形而上学言論」