2017年6月23日金曜日

事柄を思索めぐらす者は少数で、それ以外の者は他の主張に思索するだけである。

 著作に先立ってあらかじめ、真剣に考える少数の著作家の仲でも、事柄そのものについて思索をめぐらす者はきわめて少数で、それ以外の者はただ書籍について、他人の主張について思索するだけである。すなわち彼らが思索するためには他人の供給する思索が必要で、なまなましい強烈な刺激をそこに求めなければならない。このようなわけで他人の思想が直接彼等の関心をひくテーマとなり、絶えず借り物の思想に動かされ、その結果真の新機軸をうち出さずに終わってしまう。これに反して少数の中でも、さらにきわめて少数な著作家は、事柄そのものから思索の刺激をうけ、その思索に直接事柄そのものに向かう。このような人たちの間にのみ、永遠の生命をもつ著作家を見いだすことができるのである。もちろん今、私がここで論じたのは精神の尊厳をさまざまな角度から扱う著作家たちのことで、独創性は発揮しても刺激の強い安酒製造に専念する著作家は論外である。

アルトゥル・ショウペンハウエル「読書について」