2017年6月6日火曜日

強い戦闘的天性は抵抗するものを必要とし求め、敵と対等が決闘の前提である。

   戦いとなると、話は別である。わたしはわたしの本性上戦闘的である。攻撃することはわたしの本能の一つである。敵となりうること、敵であることーこれはおそらく強い天性を前提とする。いずれにせよ、これは、すべての強い天性の所有者に起ることである。こういう天性は抵抗するものを必要とする、従って抵抗するものを求める。攻撃的パトスが強さに必然的に伴うものであることは、復讐や遺恨の感情の弱さに伴うのと同断である。
 攻撃する者の力の強さを測定するには、彼がどんな敵を必要としているかということが一種の尺度となる。ひとの成長度を知るには、どれほど強力な敵対者をーあるいは、どれほど手強い問題を、求めているのかを見ればよい。つまり、戦闘的な哲学者は、問題に対しても決闘を挑むのである。その場合かれがめざすことは、抵抗するものに勝ちさえすればいいというのではなく、おのれのもつ力と敏活さと武技の全量をあげて戦わねばならないような相手ーつまり自分と対等の相手に打ち勝つことである。・・・敵と対等であることーこれが誠実な決闘の第一前提である。相手を軽視している場合、戦いということはありえない。相手に命令をくだし、いくぶんでも見下している場合には、戦うにはおよばない。

フリードリヒ・ニーチェ「この人を見よ」