2016年6月14日火曜日

原爆の子

 息詰まるような空襲警報が朝になるとともに解除されて、ほっと一息ついたのだから、あの時の爆音が聞えようはずなかった。それこそB29にとっては、絶好のチャンスに違いなかった。おまけに広島の空は快晴で、原爆第一号にとっては絶好の日和で、まったく願ってもない好条件だったらしい。そして8時15分。
 広島市は炎上の真っ最中で、7つの清流には見るも無惨な老若男女の死体が流れていたのである。家族を燃え上がる中に残したまま、隣近所の崩れた家の下から助けを呼ぶ声から去って、どうすることもできない悲しさを今なお胸の中に焼きついて永遠に消え去ることはない。一夜燃えつづけた広島はやがて死の街になり、その後は地獄であった。
 鉄骨だけ残っている電車の中には、白骨がずらりとならび、もがいた人々の足がはみ出したま白骨化していた。学徒動員の男女の中等生たちは、まだかすかに残っている命の燈火を燃やして、家族らの名前をか細い声で呼びつづていた。原爆の放射能のため焼きただれた身体を冷やそうとして川の中に入り、そのまま没していった。
 幾日か広島の雲には死体を焼く煙がただよっていた。川べりの土手の上から昇って、煙を方針したようにながめていた。とめどもなくこほれ落ちる涙は、焼けはてた広島の大地にしみこんでいった。
 かろうじて生き残った人々には、原爆症の恐怖がおそってきた。放射能は、実は無傷に見えた人々の骨髄までも深くしみこんでいた。髪は抜け落ち、歯ぐきからは出血し、やがては体中に紫色の斑点が生じると、ばたばたと倒れていった。
 猫もしゃくしも民主主義と自由と同じように平和も唱えられた時代がにあった。日本が迎えたような平和が、果たして真の平和と言えるものであったか。世界でいけなかったら広島だけでよい。果たして広島に真の平和が訪れたのか。
 原爆30万人の犠牲を売りものにした平和記念年は単なる観光都市であってよいのか。ケロイド性症状のいたわしい人間は、見世物小屋の見世物であってようのか。元安川の川べりの産業奨励会館であった原爆ドームを訪れる旅人よ。あれは見世物ではないですよ。
 我々は厳粛に、そして敬虔に8月6日を迎えよう。原爆の犠牲者に、広島から真の平和を築くことを誓いつつ、祈りをささげよう。売りもの、見せしもの原爆広島ではなく、今こそ真実の平和広島を築いていこう。その時にはじめて、広島は原爆と平和のメッカとしての第一歩を踏み出すであろう。

広島の少年少女のうったえ