2016年6月7日火曜日

カチンの森の大虐殺

   歴史の中のポーランドは、天然の要塞のない平原に位置したため、ナチスドイツ側の敗北が明らかになって来ると、ポーランド人の独立運動や反乱が起こり、ついに共和国を宣言した。なじみ深いポーランド人の楽聖ショパンやラジウムを発見したキュリー夫人、ノーベル文学賞のシェンキュウィチがいた。
 ドイツとソビエトは秘密裏に不可侵条約を結ぶ。ソビエト軍に捉えられたポーランド将校の数は18万人である。ドイツ軍はカチンの森で数千にのぼるポーランド士官の遺体を発見した。9ミリ口径のピストルが射ち込まれている。誰しも慄然とせざるを得ない地獄絵図である。ソ連側検事は、ナチスドイツの犯罪として、カチンの森事件を取り上げるように動いた。しかし、立証は困難という反対で起訴は成立しなかった。
 ソ連の容疑が濃厚だったから、戦後30年を経ても、この犯人探しには結論が出ていない。アメリカ特別委員会は、ソ連の犯行とした。予備将校、医師、弁護士、教師などの知識人が多かった。根絶やしにしようという狙いがあったのではと推測している。この事件は、後々まで断絶をもたらし、尾を引いてゆくのである。行く不明になった士官は8,000余人で、カチンの森で発見された死体は4,000余体である。まだ発見されずに有るかもしれない。
   緒戦にポーランドに快進撃したドイツ軍は、開戦初年度の1941年の冬早くもモスクワ全面でつまづいた。赤軍の頑強な抵抗の内、冬を迎えた。雪と厳寒を利用した反撃に会い、後退を迫られた。スターリングラードで、ソビエト軍に包囲され、降伏した。1941年6月ノルマンディ上陸による反抗では、銃後では若者の姿を見ないと言われる壮絶な2正面の戦いになった。
 過去の歴史は、西からの侵入者であるナポレオンも、ヒトラーも、必ずポーランドを通って入って来た事を教えている。ワルシャワ蝶起で使用された近代火器は、手製の銃投擲弓器であり、まさに絶望的な戦いである。ヒトラーは「必要あればワルシャワの全ての住民を射殺すべきである。街を焦土とせよ。」と命じた。ドイツ軍は、ナパーム、ロケット弾、100トンのカール臼砲を使用した。破壊力はすさまじい。ワルシャワ市に雨あられと撃ち込んだ。ワルシャワ市民は、弓で火炎ビンを飛ばして立ち向かった。ドイツ軍が、兵を進めたあとは廃墟となり、人影は消え失せた。暴行と略奪をした。あまりの非道さに、総統本部はカミンスキ大佐を処刑した。市民の死者は、30万人にのぼった。市民は街から追い立てられた。ドイツ軍の破壊するシーンは活字では伝えられず。火炎放射器で、内部を焼かれて、ダイナマイトで粉砕されて、一瞬にして瓦礫の山に変貌してしまう.。
   スターリンはポーランドの亡命政権は早晩消滅し、ポーランドのソビエト化は容易に進むと違いないと衛星国化する強い覚悟でいた。

   あのとき世界は