長崎被爆医師の記録である。1945(昭和40)年8月9日、爆心地から1400mの病院にいた。南西の方向に暗黒色の煙と黄赤色の炎を見る。27年間間この地点に固着された化石のようになる。「広島市新型爆弾を投下被害甚大なり」と軍は発表する。8日に広島を見て帰った長崎医大の角尾学長が学生全員を集めて、異例の訓辞を行う。日本の知恵は貧弱であり「貧すれば鈍する」の諺通りで「知らせれば国民は一度に戦意を喪失する」ので、指導者はそれだれを恐れた。日本は盲目的に破局に突入しつつあった。
真珠湾攻撃の1941(昭和16)年12月8日の朝、プルダン校長や外国人司祭は警官に拉致される。神学校を結核療養所に転換することを考えついた。お百度詣の根気に負けて県庁は認可する。私は「長崎の鐘」で有名な永井隆博士の直弟子になる。
高原病院より裏紙病院に鳥が立つように行く。天の配剤である食事療法をする。盗汗が出て発熱する。早くも肋膜炎を食事療法で直してみせると決意する。招集令状が届くも即日帰郷となる。総動員法の成立によって日本人の所有権はすべて軍部の手に移ったのも同様である。ここを陸軍病院に使いたいと軍は言う。有無を言わせぬ語調だ。病院を丘の上に移すどころか、司令部の疎開さえ考えねばならない状況である。人工気胸をやるようになる。市街地は強制疎開が始まったおかげで、浦上病院に薬品がたくさん集まる。
広島の次は小倉市であったが、雲が多くなる理由で急に長崎になった。1945(昭和20)年8月9日午前11時に病院が直撃弾にやられた。南西の方向に視線を移して愕然とする。地上が火を吐き、のたうち噴火している様に上がって来る。「熱い、熱い、水をくれ」と呻く。X線機械が燃える。引き出しの中の物が全部飛び散る。圧力が圧力を生んで部屋の中は何があるかさっぱり解らない。病院は燃えたが、70名の入院患者は全員助かった。浦上病院が1000俵余りの玄米、みそ、醤油の倉庫にあてられたのが役に立った。天主堂には2000表を保存していた。人間の内部細胞を破壊する恐るべき放射線には気が付かなかった。アメリカの科学人は「爆心地には75年間生物は生息しえない」と確信する。
城山小学校の女教師が、背中に無数のガラスをハリネズミの様に受けた。深く筋肉に食い込んでいる異物の傷をこれまでに見たことがない。10個抜いて「もうやめてください」と、痛みと疲労であえぐように言う。警備隊が来て救護病院に来たと300人の負傷者をつれて来る。医者なら治療してくれと言われる。一包の薬品を持って来ただけで、一日分の薬品にもならぬ。多数の負傷者を置き去りにした。一昼夜すると60人の負傷者がいない。逃げて帰ったか。飯粒と見たのは蛆の大きなかたまりであった。吉岡女医の顔の傷を手術する。不思議な患者が日を追って増加する。紫黒色になって絶命する奇怪さであった。無条件降伏で、阿南陸軍大臣が割腹自殺する。病院の職員・患者全員がレントゲン・カーターに似た自覚症状を感じながら、食塩のおかげで克服する。酒が良いという話が広まる。アルコールが効くとは、人間の腸粘膜の細胞は不思議なものである。味噌汁と玄飯にできるだけ塩分を摂取させ、砂糖を禁じた。爆心地から500メーター以内の人々は、8月15日までにすべて死んだ。500から2000メーターの距離で被爆した人は40日間にほとんどが死んだ。「死の同心円、魔の同心円だ」。
大雨が9月2日に降る。洗い流された気がする。アメリカ軍は8月26日に長崎に進駐すると同時に、医薬品をどんどん陸揚げし、救護所を開設した。アルカンタラ修道士、プルダン神父が反って来る。永井先生は大学病院で診察中に被爆し、側頭部の出血を包帯圧迫で止め。負傷者の救出に当たられた。占領軍のトラックが荷を降ろす。アメリカの薬があると聞き患者が多数来る。メチルアルコールで死者が6名も出て、失明して死ぬ。永井先生は、「神は、天主は浦上の人々を愛しているが故にここに原爆を投下させた。幾度も苦しまなければならない。」という。私は首肯する事が出来ず、慰霊文を書きたいと思わなかった。怒りの広島、祈りの長崎。神学校を病院にしたのは、戦争下の弾圧を切り抜けるための便法であった。教育し司祭として布教に当たらせるのは、フランシスコ会三十年の悲願であった。私は、世俗を離れて炭焼き小屋に行く。家を建て、村上看護婦を妻として迎える。私は7年ぶりに浦上病院に反って来る。大きく建て変わり、1949(昭和24)年天皇行幸、ペトロ男マリヤ女の死者達の霊が残る。
真珠湾攻撃の1941(昭和16)年12月8日の朝、プルダン校長や外国人司祭は警官に拉致される。神学校を結核療養所に転換することを考えついた。お百度詣の根気に負けて県庁は認可する。私は「長崎の鐘」で有名な永井隆博士の直弟子になる。
高原病院より裏紙病院に鳥が立つように行く。天の配剤である食事療法をする。盗汗が出て発熱する。早くも肋膜炎を食事療法で直してみせると決意する。招集令状が届くも即日帰郷となる。総動員法の成立によって日本人の所有権はすべて軍部の手に移ったのも同様である。ここを陸軍病院に使いたいと軍は言う。有無を言わせぬ語調だ。病院を丘の上に移すどころか、司令部の疎開さえ考えねばならない状況である。人工気胸をやるようになる。市街地は強制疎開が始まったおかげで、浦上病院に薬品がたくさん集まる。
広島の次は小倉市であったが、雲が多くなる理由で急に長崎になった。1945(昭和20)年8月9日午前11時に病院が直撃弾にやられた。南西の方向に視線を移して愕然とする。地上が火を吐き、のたうち噴火している様に上がって来る。「熱い、熱い、水をくれ」と呻く。X線機械が燃える。引き出しの中の物が全部飛び散る。圧力が圧力を生んで部屋の中は何があるかさっぱり解らない。病院は燃えたが、70名の入院患者は全員助かった。浦上病院が1000俵余りの玄米、みそ、醤油の倉庫にあてられたのが役に立った。天主堂には2000表を保存していた。人間の内部細胞を破壊する恐るべき放射線には気が付かなかった。アメリカの科学人は「爆心地には75年間生物は生息しえない」と確信する。
城山小学校の女教師が、背中に無数のガラスをハリネズミの様に受けた。深く筋肉に食い込んでいる異物の傷をこれまでに見たことがない。10個抜いて「もうやめてください」と、痛みと疲労であえぐように言う。警備隊が来て救護病院に来たと300人の負傷者をつれて来る。医者なら治療してくれと言われる。一包の薬品を持って来ただけで、一日分の薬品にもならぬ。多数の負傷者を置き去りにした。一昼夜すると60人の負傷者がいない。逃げて帰ったか。飯粒と見たのは蛆の大きなかたまりであった。吉岡女医の顔の傷を手術する。不思議な患者が日を追って増加する。紫黒色になって絶命する奇怪さであった。無条件降伏で、阿南陸軍大臣が割腹自殺する。病院の職員・患者全員がレントゲン・カーターに似た自覚症状を感じながら、食塩のおかげで克服する。酒が良いという話が広まる。アルコールが効くとは、人間の腸粘膜の細胞は不思議なものである。味噌汁と玄飯にできるだけ塩分を摂取させ、砂糖を禁じた。爆心地から500メーター以内の人々は、8月15日までにすべて死んだ。500から2000メーターの距離で被爆した人は40日間にほとんどが死んだ。「死の同心円、魔の同心円だ」。
大雨が9月2日に降る。洗い流された気がする。アメリカ軍は8月26日に長崎に進駐すると同時に、医薬品をどんどん陸揚げし、救護所を開設した。アルカンタラ修道士、プルダン神父が反って来る。永井先生は大学病院で診察中に被爆し、側頭部の出血を包帯圧迫で止め。負傷者の救出に当たられた。占領軍のトラックが荷を降ろす。アメリカの薬があると聞き患者が多数来る。メチルアルコールで死者が6名も出て、失明して死ぬ。永井先生は、「神は、天主は浦上の人々を愛しているが故にここに原爆を投下させた。幾度も苦しまなければならない。」という。私は首肯する事が出来ず、慰霊文を書きたいと思わなかった。怒りの広島、祈りの長崎。神学校を病院にしたのは、戦争下の弾圧を切り抜けるための便法であった。教育し司祭として布教に当たらせるのは、フランシスコ会三十年の悲願であった。私は、世俗を離れて炭焼き小屋に行く。家を建て、村上看護婦を妻として迎える。私は7年ぶりに浦上病院に反って来る。大きく建て変わり、1949(昭和24)年天皇行幸、ペトロ男マリヤ女の死者達の霊が残る。