2016年6月6日月曜日

ヒロシマ・ノート

   顔に醜いケロイドのある数多くの娘たちが、自分を恥じてひきこもって暮らしているのがヒロシマだ。この原爆体験の被害者たちが、みずから感じている恥ずかしさというものを、それこそみずから恥じることなしに、どう受けとめることができるだろう? それはまったくなんという恐ろしい感覚の転倒だろうか。 
 娘が原子爆弾によるケロイドのある顔を恥じている。彼女の心のなかではこの恥を別れ道として、地球上のすべての人間をふたつのグルーブに分けることができるわけだ。すなわち、ケロイドのある娘たちと、そうでない他のすべての人間たち。ケロイドのある娘たちは、自分のケロイドを、それをもたないすべての他の人間に対して、恥ずかしく感じる。ケロイドのある娘たちは、それをもたないすべての他の人間たちの視線に、屈辱を感じる。
 ケロイドのある娘たちはみずからの恥、屈辱の重みをになってどのように生きることを選んだのか? そのひとつ生き方は、暗い家の奥に閉じこもって他の人の眼から逃げることである。この逃亡型の娘たちが、おそらくはもっと多いにに違いない。彼女たちは広島の家々の奥にじっとひそんでいる。そしてすでに若くはなくなりつつある。
 もう片方の、逃亡しないタイプもまた、おのずから、ふたつにわかれるだろう。その ひとつは、この世界に再び原水爆が落下し、地上すべての人間が彼女とおなじくケロイドにおかされるのを希望することで、自分の恥ずかしさ、屈辱感に対抗する心理的支えをえる人たちであろう。そのとき、彼女のケロイドを見つめる他人の眼はすべてうしなわれ、他者は存在しなくなって、この地上のもっとも恐ろしい分裂は失われる。もちろんその呪いは心理的支えの域を出ない。このような娘たちは、やがて沈黙しむなしく逃亡型のうちにはいるほかなかっただろう。
 そして、もう一つのタイプ。それは核兵器の廃止を求める活動に加わることで、人類すべてのかわりに自分たちが体験した、原爆の悲惨を逆手にとり、自分の感じている恥あるいは屈辱に、そのままみずからの武器として価値をあたえようとする人びとである。
 こうした迂遠な文るは、本当は必要ではない。ヒロシマで人びとが体験し、いまもそれを体験しつつある、人間の悲惨さ、恥または屈辱、あさましま、それらすべてを、直ちに逆転して、価値あらしめるためには、そしてそれらの被爆者たちの人間的名誉を、真に回復するためには、ヒロシマが、核兵器全廃の活動のための、もっとも本質的な思想的根幹として威力を発しなければならない。その威力を、ケロイドのある人間たちと、それをもたないすべのの他の人間たちが、こぞって確認しなければならない。その他に広島の被爆者たちをそのもっとも悲惨な死の恐怖から救う、いかなる人間の手段があろう?
 ヒロシマの人間の悲惨が人間全体の回復という公理を成立させる方向にこそ、すべての核兵器への対策を秩序だてるべきではないか。この地球上の人類のみな誰もが、ヒロシマと、そこでおこなわれた人間の最悪の悲惨さを、すっかり忘れようとしているのだ。核兵器保有国のすべての指導者と国民のすべては、かれらの記憶からヒロシマを抹殺したがっているはずでないか。平和をまもるための威力としての核兵器保持である。しかし、現存する核兵器を、威力とみなすことから出発しているのはあきらかだ。

大江 健三郎