悪の意識と良心
客観的にはある意思、または、ある行為が悪であることが明らかであると思われている場合でも、それを指して「それは悪である。」と言うことは難しい。それができるには、厳密には、それを意思した本人自身またはその行為者自身が、心の中で何らかの「やましさ」「はずかしさ」等を感じているのではなければならない。
言い換えれば、自身によって「それは悪である」ことが明白に恥等として意識されているのではなければならない。そうなれば根本の問題は不問にされ。慚愧と自責の念だけが残される。しかし、その意識が本人自身に欠けているなら、困ったことが「それは悪である。」という言葉は永遠に一方的な非難語に終わるであろう。
もちろん。この意識がなくても法的制裁は可能であって、実際に処罰は行われているし、違法までには至らない場合には、社会がそれに対して慣習道徳を規範とした社会的制裁を加えるであろう。しかし、いずれの場合でも、この意識の存在が前提にされていなければ、どんな制裁も集団の他のの成員に対する見せしめであるにすぎず、その行為者に対してその真の意味をもつこはないであろう。
それは良心による裁く倫理的な形式にそれを求めるよりほかはないであろう。それは良心による裁き、いわゆる良心の呵責をまつ事である。道徳的評価は本来他者に向かって行われるものではなく、自己に向けられるものであると言われるのは、この理由からである。
最もわたし自身に呼ばれるにふさわしい、内奥にある道徳感情である。これが動かされるのは、悪自身ではなく、「それは悪である。」という意識によってである。だから、それは多様な悪事自体の中から道徳的に「それは悪である。」いう特殊な意識と同行していると考えられる。
この意識は、悪を恥辱または罪過として知覚する道徳感情である。恥等の意識は主に、人間本性に根ざし、それが原因で人間は過ちを犯す欠陥性または不完全性から、罪の意識は主に、人間本性の一般的傾向であり、それが原因で思い上がった気後れしたりする逸脱性から、それぞれ恥等と罪と呼ばれるものを選り分け、それらを道徳的悪とする。良心はこの同行する悪の意識に対して拒否権をもつだけである。
人間と悪
河野 真 編