2016年7月1日金曜日

敵になるという事

 敵になるといふは、我が身を敵になり替へて思ふべきという所也。世中をみるに、ぬすみなどして家の内へと取り籠るやうなるものをも。敵をつよく思いなすもの也。敵になりておもへば、世中の人を皆相手とし、にげこみて、せんかたなき心なり。取籠るものは雉子也、打果しに入る人は鷹也。能々工夫あるべし。大ききなる兵法にしても、敵をいへば、つよく思ひて、大事にかくもの也。よき人数を持ち、兵法の道理を能く知り、敵に勝つという所をよくうけては、気遣すべき道にあらず。一分の兵法も、敵になりておもうべし。兵法よく心得て、道理とよく、其道達者なるものにあいては、必ずまくると思う也。能々吟味すべし。
 崩れという事は、物毎ある物也。其家のくづる々、身のくづる々、敵のくづる々事も、時のあたりて、拍子ちがいになりてくづるる所也。大分の兵法にしても、敵のくづる々所也。大分の兵法にしても、敵のくづる々拍子を得て、其間をぬかさぬやうに追ひたつる事肝要也。くずる々所のいきをぬかしては、たてかへす所あるべし。又一分の兵法にも、戦ふ内に、敵の拍子ちがいてくづれめのつくもの也。其のほどを油断すれば、又たちかえり、新敷なりて、はかゆかざる所なり、其くづれめにつき、敵のかほたてなをさざるやうに、慥に追ひかかる所肝要也。追縣くるは直につよき敵也。滝たてかへさざるやうに打ちはなす也。打ちはなふ事、能々分別有るべし。はなれざればしだる心有り。工夫すべきもの也。
 打つという事、あたるといふ事、二つ也。打つという心は、いずれの打にても、思ひ受けて慥かに打つ也。あたるはゆきあたるほどの心にて、何と強くあたり、忽ち敵の死ぬるほどにしても、是はあたる也。打つといふは、心得て打つ所也。吟味すべし。敵の手にても足にても、あたるとうことは、先づあたる也。あたるはさわるほどの心、能くならひ得ては、格別の事也。工夫すべし。

宮本 武蔵 「五輪書」