2016年7月11日月曜日

思想が生涯の眼目

 早くも私はいかなる了見にも一面の真理があって、それがますます人を迷わせて了見を発作的に固執されるのだと悟った。この洞察は私の生涯が進んで行くに従ってますます著しくなって来た。その後は2人の人が私の目の前で真理について争う場合には、私はその真理を正に双方から知った。だから、私は決して好んで一方に味方するようなことはしなかった。しかも、それが私にとって幸福だった。
 私の内的生命の形成に同様な決定的影響を及ぼした一つの苦い経験があった。キリスト教を身に付け、キリストを生活に実現し、イエスに私没することが既成の協会宗教によってますます繰り返し要求された。これらの要求は、父の教育上の熱心さや生活上の熱心さのために幾度となく示された。
 その要求が児童の心情にしっくりする場合には、児童は全く制止することも知らずに要求を全体として受け入れた。認識もすればまた完全にそれを果たそうとする。この要求が度々繰り返されたので、私はこれをとても大切なことと思った。
 しかし、それを果たすことは大きな困難であり、実に全く不可能であると思われた。私はこのように信じた矛盾ははなはだしく、私を圧迫した。そこにやっと喜ばしい考えが浮かんだ。人間の本性そのものは本来人間をしてイエスの生活を再び純粋に生活しかつ実現することを不可能にするものではない。かえって人間はもしそれへの正しい道を歩むなら、純粋なイエスの生活を獲得できると考えた。
 これを思うたびに私の少年時代の境遇と事情とは帰属するような気がする。この思想はほぼこの時代の終わり頃のものだったろう。従ってこの時代の内的発展の叙述の終結としてもいい。この思想が後に私の生涯の眼目になったのである。

フリードリヒ・フレーベル「フレーベル自伝」