ある人間が虎や熊と戦って見せても、私はその人間を別段に英雄とは見ない。曲馬団が来て、虎や獅子の口を閉口しても、英雄とみないで見世物と思う。喧嘩を見ても、英雄として受け入れない。まして、戦争をして見せた所では、喧嘩よりも一掃悪いものである。英雄と呼ぶのは大人たちの勝手であるが、私にはその英雄はうれしいものでも好ましいものではない。
英雄は、戦争はおろか、喧嘩もしなかったので、たまに喧嘩しているのは、英雄でもなくただの人間たちであった。そのようにする者を極端に嫌う。植木屋の酒癖の悪い職人が、仲間のおとなしい職人と喧嘩して組み伏せたのを見て、大いに怒って、泣きわめいた。もちろん、組み伏せた職人を英雄だとも何とも思わない。戦争だって同じ事である。
人間を切り従えたり、人の国を征伐するのが英雄ではない。野の虎でも恐れないのでどんな英雄でも恐れないとは限らない。ことわざの英雄は、赤子の泣くのを黙らせ、無邪気でなくし、多くの人を不安に駆らせ、英雄というものは、野の虎ほども常識のない動物である。
世間でいう英雄とはゆわゆる植木屋の酒癖の悪い職人のような人間である。私の英雄は決して人を組み伏せてみせたりすることをしない人間である。赤子の泣くのを黙らせるどころか、赤子を黙らせるために大汗を流して、結局失敗して婆やに怒鳴られる位が落ちである英雄であった。
私が塾にいた頃、十余人の塾生たち一同が歩ていた。年長の塾生が、向こうから来た同じ年頃の二人連れの少年の肩に触れたようだ。その少年はいきなり猛烈な勢いで友達につっ懸ってきた。とっさのことで友達はよろめいたがちっとも相手にせずにそのまま手を引いて行ってしまった。
まず相手の少年の大胆さに驚かされた。十余人が列をなして歩いているのに、わずか二人きで、突撃を加える勢いは驚かすに十分であった。けれども、今に印象に残っているのは、こずかれた先輩が平然として相手のするがままに任せていた態度であった。多数を頼べは子どもとはいえ十余人いて、中にはかなり喧嘩好きもいるし、二人の少年をやっつける訳もない。平然として、手も足も使わないで、相手が引き下がると同時に、傍らの友達と見合わせて笑ったのである。この笑い顔は、私たち子供同士が常に取り交わしている顔で、別段英雄的の笑い顔ではなかった。
この友達の笑い顔を思い出すごとに、暴力を軽蔑する気持ちになる。
英雄豪傑の類が限りなく尊崇されていることは何時の世にも変わりはないと思うが、私の浸っていた空気は、甚だ英雄豪傑の匂いがしない。国家教育なねものは確立していて、沢山の英雄豪傑のことが、崇拝心をそそるような方法で記載されていた。それにも関わらず、私の頭の中では、国家的ないし世界的英雄豪傑の待遇はみじめであった。多くの英雄豪傑をいろいろのことを聴かされる。しかし聞かされたという記憶すらはっきりとしない。
長谷川如是閑評論集