2016年7月14日木曜日

私の終戦前の証言

血と飢のフィリピン戦線
日赤出身の従軍看護婦は軍人と同様「赤紙」を受けて各戦線に出征していった。1944(昭和19)年ルソン島を敗走して、約6万2千人のうち4万9千人が戦死する。1945(昭和20)年頃になると、爆撃により病院もたたんで、山の方へ撤退していった。病気はチフス、アメーバ赤痢、マラリア、結核である。1945(昭和20)年5月には内地からの補給は途絶えた。薬もなく、治る見込みのない人には使わず、死体を裸にして使えるものは全部取る。深く掘った穴の中に5人一緒に埋めてしまう。誰かが死んだら、その軍服を下さいと予約する人もある。しまいには死体は道端にごろごろ転がっていた。最後の時には、昇汞錠を飲むことになっていた。投降し収容所に入る時、持ち物は汚いと火の中に燃やされる。シラミが湧いていた。

義烈空挺隊の最期
 長谷川道明は、新婚4か月で沖縄に出撃する。ボロボロの飛行機で胴体着陸し、手榴弾で合計26機の米軍機が破壊された。7万ガロンのガソリンが炎上し、特攻死した。
ひめゆり部隊と鉄血皇隊
  1945(昭和20)年4月1日、沖縄にアメリカ軍が上陸する。戦死者は米軍1万2千人、日本軍は10万人、一般市民の犠牲は軍隊を上回る15万人に達する。本土決戦の防波堤の役割を果たす教育は、前々から叩き込まれた。マイクで住民に危害を加えないから出てこいと投降の勧告をする。結局アメリカ軍の捕虜になった。

特攻戦発動
 「震洋」は、ベニア板製のボートに自動車のエンジンを搭載し、爆薬を積んで目標に体当たりするというものである。自殺艇と名づけていた。日本本土決戦こそ、ベニア板製の大きな戦場となるはずであった。
爆弾から貨幣まで
 太平洋戦争に入ると、日本は金属材料の途を閉ざされ、生産は低下した。1942(昭和17)年、銅像、梵鐘など根こそぎ供出を命じ、ついにお金まで回収され、さらに目をつけたのが瀬戸物で硬貨を作れということになった。かつては第一次世界大戦にドイツが発行していた。
 佐賀の有田焼は、秀吉が朝鮮より陶工の李参平をつれ帰り、開かせた。一銭陶貨を、月に一億個の指令が下りた。軌道にのった頃に終戦となる。京都で十銭陶貨、瀬戸で五銭陶貨の出産は日の目を見なかった。胸磁器で毒ガス弾、手榴弾、地雷を作り、それを研究するのに二年かかった。特許庁の呼び出しに、金がないから行かれぬ。特許庁の呼び出しに、金がないから行かれぬ。特許庁から佐賀県知事に手紙で「知らんですむか」と知事から五十円もらう。手紙が行き、旗を持ち東京に行く。参謀本部、軍令部でもお金をもらい、合計7万5千円となる。よその者には金は出させんと、有田で資本を作る。地雷を約50万個、手榴弾を1000万個作る。追撃砲の無撃砲針雷管は、実験したら一番成績が良かったので月300万個作れと命令される。
実らなかった海外終戦工作
 太平洋戦争の指導者には、冷静客観的な判断力と勇気がなかった。緒戦の勝利に酔った軍は、鼻息ばかり荒くなり、沖縄失陥という土壇場になっても本土決戦を呼号し、軍のメンツを優先した。

原爆・ヒロシマ証言
 1945(昭和20)年8月6日、8時15分、エノラ・ゲイ号が広島市大手町の島病院の上空570mで、原子爆弾を落とす。20万人死亡する。建物5500戸全焼、6800戸が全壊した。

ポツダム宣言秘話
 ポツダム宣言を、最初にキャッチしたのは外務省のラジオ室であった。天皇については触れず、戦犯について強調する。戦後処理の座長格のドゥーマンは、奈良県山中中学校を卒業後に、アメリカの大学を出た人であった。天皇制廃止となれば軍を降伏させる方法はなく、日本は内乱となり、予定通り九州上陸して来たと思われる。

ソ連ついに参戦す
 1945(昭和20)年8月9日、ソ連参戦が日本の止めの一撃となる。長崎にも二発目の原爆が落とされ、来るべきものが来たと感じた。佐藤尚武ソ連大使は1945(昭和20)年5月に日本に帰っていた。