人間自身と同じように、社会生活もそれの世界なしにはすまされない。それの世界の上を汝の現存がおおうている。利潤への意志、権力への意志は、人間自身への意志と結びつき、これに支えられているかぎり、自然で正しい結果を生む。人間の衝動は、汝から分離しない限り、悪い衝動ではない。汝と結び、汝によって決定される衝動は、社会生活の原形質である。
これに対して、汝からの分離は社会生活の解体となる。利潤への意志の領域たる経済、および権力への意志の領域たる国家とは、精神に参与する限り、生命に参与する。しかるに、もし経済や国家が、精神を放棄するならば、彼らの生命も終わりとなるであろう。その生命がつきてしまうまでには、むろん相当の時間がかかる。そのしばらくの時間を思い誤って、なお幻影を追い求めようともがくが、すでにその作用は渦を巻いている。
事実、ここに至っては少しぐらいの直接的な力を導入しても無益である。経済機構や国家組織の膨大な力を多少ゆるめてみたところで、汝と呼びかける至上の精神が失われている事実を埋め合わせるわけにはゆかない。どのような改革を試みても、一時的な周辺的な逃れでは、生きた中心との関係を回復させることはできない。
人間の社会生活は、その機構のすみずみに至るまでゆたかな汝との関係の力が浸透することによって、生命をもち、精神の中にこの関係の力を集中結合することによって、社会の具体的な形体を生み出すのである。この精神に忠実に従う政治家や経済人は、自己と関わり合う民衆を無造作に汝の担い手として取り扱うならば、彼らの事業を無駄にしてしまうことをよく知っている。
しかし、それにもかかわらず、むろん無造作に行うのではなく、精神が彼らにぎりぎりの限界においてではあるにせよ、かかわり合う民衆を、汝の担い手として取り扱うのである。かくして汝から分離した社会機構を破壊するかもしれない狂気を、汝の現存の支配のもとにおさめることに成功する。こういった政治家や経済人は熱狂家ではない。
国家が経済を支配しようと、あるいは、経済が国家に権威を与えようと、両者とりたたて変化がないならば、それは重大な事柄ではない。しかし国家の制度が以前よりさらに自由になり、経済が一掃公正となるならば、重大な問題であろう。社会生活の解体とともに、社会生活から無関係な一領域となれば、むろん精神が社会生活に生きることはあり得なくなるだろう。これは、その世界に転落してしまった諸領域が、まったく暴政にまかされてしまい、しかも精神が完全に無力化されてしまうことを意味する。
マルティン・ブーバー 「我と汝・対話」