2016年7月12日火曜日

死は好奇心の事柄ではない

  死の問題は単なる好奇心の事柄ではない。自己の存在そのものの不安に動かされることなき好奇心は人間の主なる病気のひとつに過ぎない。「この無益なる好奇心にあるよりは、誤謬のうちにあることがむしろ彼には無害である」いかにも好奇心は我々においてひとつの不安を喚び起こすものであるが、この不安は好奇心が我々をあたかも自己の生の地盤から奪い去って終わることなき放浪に追遣るところに生まれる。あるいは生の根本的規定そのものでさえある不安とは明確に区別さるべきである。好奇心はひとつの虚栄に外ならぬ。ひとは最もしばしばただ何事かについて他に語らんがためにのみその事をちろうと欲する。
 しかし。死は人間の根本的規定によって必然的にされた問題である。それはパスカルが伝統的な神学から単に承けて来たものではなかった。なぜなら彼は彼の議論をすべて「彼すべてからの心臓において吟味する」ことをしたからである。それは彼に退却と譲歩の余裕もなく襲い来る問題であった。
 死について問うことは論理的には何らの必然性をもたぬであろう。私は死の必然性を演繹し得る如何なる論理も知らない。むしろ死はその前にはあらゆる論理的演繹も歩みを止めねばならなぬ単純なる事実、それに面してはあらゆる論理的明証も揺り動かされる残酷な現実である。論理の美しき水晶宮に安らう者にとっては、死を尋ねることは狂気でなく気紛れに過ぎないであろう。ひたすらに斉合的なる体型を欲する人々にとっては、死を論ずることはたかだか「均斉のために盲窓を作る」こと以外の意味をもたないであろう。
 しかしながら人間の存在が最も問わるべき存在であるのを知る者には死は退引ならぬ問題である。哲学が生の覚醒と振盪であることを理解する人々には死は最も考慮されるべき事件である。我々の存在に関するすべての問と反省はあたかも自然の重力に引きずられておのずからこの一点に集まって来る。この必然性を解釈するためには、何よりも人間的存在の基本的規定を考察せねばならない。そしてこのように死の問題が重要な位置を占めるところに存在論がいわゆる心理学から区別されるひとつの特質は見出されるであろう。

三木 清 「パスカルにおける人間の研究」